
舞っていた桜が散り、初夏に向けての青々とした緑が映える季節。
気候も穏やかで、寒くも暑くもない。
そんな晴れやかな季節だというのに、僕の心はどこか空虚だった。
相変わらず剣道場には近寄らず、始めると言っていたアルバイトもせず、日課であるトレーニングをただこなすだけの日々を送っていた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
チュンチュンと、鳥の鳴き声が心地よい早朝の公園。僕は走っていた。
その走りは、常に己の限界に挑むような、そんな走りだった。
「ゼェッ、ゼェッ」
この公園はとても大きく、真ん中に大きな池が貯められており、その池を囲むように道が舗装されている。
そしてこの公園には周遊コースというものがあり、一周約二kmの距離がある。僕は学校がある日は毎朝そのコースを走っていた。
もうすぐゴール地点だ。
僕は最後の気力を振り絞り、ラストスパートをかけていく。
「ゼェッ、ゼェッ」
走り終わると、膝に手をついて呼吸を整える。
「はぁっ、はぁっ、ふぅ……」
呼吸が落ち着いてきたところで顔を上げ、汗を拭う。
この瞬間ばかりは、全てのことを忘れることができるような気がする。
「ほんまに、毎日よく走るね〜」
散歩をしていたおばあさんが声をかけてきた。
「あ、は、はい。日課なんです」
僕はいきなりのことだったので、少し詰まってしまったが、なんとか答えることができた。
おばあさんはそれを気にした風もなく、「偉いねぇ」と言って去っていった。
──別に偉くもなんともない
ただ毎日自身の中の、このなんとも言えない鬱々としたものから逃れるために、己を痛めつけているに過ぎない。
「あ、そうだ」
思い出したように時計を見る。
時刻は朝の六時半。もう家に帰らないと。
「よし、行くか」
再度気合いを入れ、僕はまた家まで走りだした──
──
昼休みのチャイムが鳴る。
「起立!礼!」
日直の号令が掛かり、そのまま昼休みに突入する。
僕は弁当を広げようと、鞄の中に手を伸ばした。
「おい、リック」
すると頭上から声をかけられた。
僕は弁当に伸ばした手を引っ込めて、相手に向き直る。
声をかけてきた相手は、吉田だった。
何なのだろうか──
吉田は確か僕のことを快く思ってはいなかったはずだが……
「お前、部活辞めたんだってな」
「ああ……辞めたよ」
僕が部活を辞めたことは、クラスメイトには言っていないのだが、流石にもう気付かれているらしい。
「ならお前は負け犬だ。途中で逃げたんだからな」
そう言って、吉田は「ははは」と笑う。
「そうだね。俺は負け犬だ」
僕は平然とそれを認めた。
「……っ」
吉田は僕がムキになって反論してくると思っていたのか、とんだ肩透かしを食らったような、唖然とした表情をしていた。
僕は引っ込めた手を再び伸ばして、弁当を広げた。
──腹も立たなかった
吉田が言ったことは事実だからだ。
僕は負け犬だ。
全てのことから目を逸らして、尤もらしい理屈に飛びついて逃げてしまった。
今を楽しむ──
僕は部活を辞めたら、それができると思っていた。
だが実際には、後悔と罪悪感で今を楽しむどころではない。
かと言って、以前の自分の状態を考えれば、部活に復帰することは難しいだろう。
やり場のない気持ちが僕を内側から締め付けていく。
僕は心なしか乱暴に弁当を頬張った──
──
「ただいま」
誰もいない家に虚しく響く声。
今の時間帯、家族はまだ学校か仕事だ。
僕の家族構成は両親に姉と妹がいる。両親は共働きで、姉と妹はまだ学生だ。
僕は部活を辞めたので、一人この時間帯に家にいるというわけだ。
玄関で靴を脱いで廊下を歩く。廊下をそのまま真っ直ぐに進んでリビングに着くと、脇にある台所に入り、水を一口飲む。
「ふぅ……」
喉を潤した後は、自分の部屋へ行き、ジャージに着替えて両足には重りを装着する。
これから夕方の日課をするのだ。
僕は外に出て階段を使い、下に降りていく。
下に着くと、マンションの裏手にある五十メートル程の坂道でダッシュをする。
一本目──
地面を強く蹴り、腕を振る。
タンッ、と体が加速する。
膝を上げ、前傾姿勢になる。
「はっ、はっ」
後ろに流れていく景色の中で考えることは一つ。
──もっと強く、もっと速く
そうすれば──このドロドロとしたものも消えてくれるはず……
だが二本目、三本目と走っても一向に気持ちは晴れないままだ。
「はぁ、はぁ、はぁ」
当たり前だ。
これはただの逃避なのだから──
何本目かのダッシュを終え、マンションの階段前に来る。
次は階段ダッシュだ。
一階から最上階まで一気に駆け上がるのだ。
「すぅーーはぁーー」
僕は深呼吸をすると、勢いよく階段を駆け上がった。
ダダダダン、ダダダダン、と一段一段階段を踏みしめていく。
「ゼェッ、ゼェッ」
最上階まで来た時には、もう息も絶え絶えだった。
「はぁっ、はぁっ、ふぅ……」
息を整え、再び階段を降りていく。
これをあと数セット繰り返すのが僕の夕方の日課だった。
──こんなものではなかった
あの部活でやっていたことは、こんなトレーニングの比ではなかった。
ぎゅっと拳を握る。
この鬱屈とした気持ちを消すには、あの部活以上のことをやらないと消えないのか──
そんなことを考えながら、日課をこなしていくのもいつものことだ。
日課が終わり、家に帰る。
家にはまだ誰もいない。どうやら姉と妹は友人と遊んでいるようだ。
あの二人は僕と違って友人が多い。なので家に帰ってくる時間も遅くなる傾向にあった。
僕は台所に行き、冷蔵庫を開ける。
冷蔵庫の中には、母が朝のうちに早起きして作り置きしてくれた夕飯が置いてあった。
僕はそれらを温めて机に並べる。
「いただきます」
一人で温めた夕飯を食べる。
家の中は何も音がなく、ただ僕の咀嚼音だけが響いていた。
「ただいま」
玄関から母の声が聞こえる。
仕事から帰ってきたようだ。
「ただいま、リック」
「ああ」
僕は頷くだけでそれに応える。
何だかおかえりと言うのが気恥ずかしいのだ。
「……ねぇ、リック。アルバイトはする気ないの?」
母は一人で黙々と食事を摂る僕を見て、おずおずとそう言った。
「今は……する気はないよ」
「そう……」
それきり会話はなかった。
僕は食べ終わった食器を台所に持っていき、流し台に置く。
自分の部屋に戻ると、そのまま座り込んで苦悶する。
──できるわけがない
剣道部での自分の無様さを思い出す。
何度も先輩や同期に叱責されて焦り、空回り、また叱責される。その繰り返しだった。
挙げ句、自分で辞め切ることも出来ずに、こうして全てのことから逃げ回っている。
そんな自分に、お金を得るために働くことなんて出来るのか?
考えただけで恐ろしい。
僕は座り込んだまま、しばらく自問自答を繰り返していた──
──
三限目終了のチャイムが鳴る。
次の授業が始まるまで十分間の時間がある。
「バイトだりぃなー。俺のとこ忙しくてさ」
「お前んとこ人気店だもんな」
クラスメイトの会話が聞こえてくる。
どうやらバイトの話をしているようだ。
──羨ましい
僕もそろそろアルバイトをしないといけない。いつまでも何もせずにいると、あの部活を辞めた理由が、本当に真っ赤な嘘になってしまう。
それだけは嫌だった。
けれども──怖い。
怖くて一歩が踏み出せない。
自分がどれだけ出来損ないなのかは、部活をしていた時に証明されている。
彼らは立派だ。だるいと言いながらも、しっかりと仕事をこなしているのだから。
そこまで考えて、ふと自分に驚く。
クラスメイトのことを、立派だなんて思ったこともなかった。
部活にいた頃の僕ならば、彼らの外見と軽口だけで人間性を判断して、心のどこかで彼らのことを見下していた。
だが──僕はもう人間は表面では判断できないことを知っている。そう思えるようになったのも、僕に生き方を教えてくれたあの先輩がいたからだろう。
気持ちに余裕ができて周りをよく見てみると、一人一人が違う形で何かを頑張っているのが分かる。
そんな僕は、以前よりも雰囲気が柔らかくなったのか、時々クラスメイトが話しかけてくるようになった。
今の僕は、話しかけられれば、受け答えくらいなら出来るようになっている。
「なぁ、リック。お前はなんのバイトやってんの?」
早速話しかけられた。
部活を辞める理由として、アルバイトをするためだとクラスメイトにも伝えているので、彼らは僕がもうアルバイトをしているものだと思っているようだ。
「うん……倉庫系のバイトをやってるんだ」
「へぇー倉庫の整理かな?良いバイトだな」
「うん。まぁ、楽しいよ」
「羨ましい」と言って、彼は友人との話に戻った。
──嘘をついてしまった
咄嗟の嘘だった。
実はまだ怖くてアルバイトをしていないなんて、言えなかったのだ。
僕は自分が情けなくて机に突っ伏し、目を瞑った──
──
その日の夜、僕は悩んでいた。
クラスメイトに対して、アルバイトをしていると嘘をついてしまったことについてだ。
なぜ、あんな嘘をついたのか……
──嘘だとバレたくなかった
部活を辞めたのが実は自分のためで、アルバイトの件は全くの嘘だったとバレたくなかったのだ。
簡単なことだった。
僕は自分の見栄とプライドばかりで、その実ただの臆病者だったわけだ。
「なんだ……そんなこと、とっくの昔に分かってたじゃないか……」
自嘲気味に呟く。
自分の正体が判明したことで逆に晴れやかな気分だった。
「ふぅ……」
一息つく。
不思議なことに、気持ちが少しだけ軽くなった気がした。
バイト、やってみようかな──
おそらく開き直ったのだろう。
臆病者は臆病者なりに足掻いてやる。そう思えた。
そうと決まれば、母にバイトをする決意をしたことを言いに行こう。
母にはかなり心配をかけた。
「母さん、俺バイトするよ」
「ええ……どうしたの?そんないきなり……」
母は突然の宣言に驚いていた。
「今日……学校でちょっとあって……決めたんだ」
「そう……なんにせよ良かった。元気になってくれたみたいで」
どうやら母さんはずっと心配していたらしく、僕の宣言を聞いてほっと安心しているようだ。
「バイト探し、頑張ってね。母さんの方でも良いバイトが募集してないか、探しとくから」
「うん。わかった」
お礼を言うのが、なんとなく気恥ずかしくてぶっきらぼうな返事になってしまった。
自分の子供っぽさを痛感する。
ともあれ、決意はできた──
後はアルバイトを探して、面接を受けるだけだ。
あとがき
第二章も読んでいただき、ありがとうございます。
この章では、僕が将来進むことになる道へのエピソードを書いていこうと思います。
その時の心情も、出来事も、出来る限り丁寧に紡いでいこうと思いますのでよろしくお願います。

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