
最終節 剣を捨てた日
あの冬の合宿から年が明け、一月、二月と時が過ぎた。その間、僕はなんとか心が折れる寸前で踏みとどまっていた。
そんな僕は、現在本格的に両親に心配されている。
「ねぇ、本当に大丈夫?」
「……うん……大丈夫」
なんでも、僕の表情は常に暗く、笑うこともなくなったらしい。
母の声に大丈夫と答えたが、実はかなり参っていた。
あの合宿からかなりの時が経っているというのに、中村先輩との関係は悪化したままだ。
そして、あの暴行事件が何度も頭にちらつく。
結局、あの数日後、東藤先輩は部活を辞めてしまった。
あれだけのことがあったのだ。それも当然だと思う。僕はといえば、あの時見ているだけだった自分を思い出しては、自問自答を繰り返していた。
──なんで動かなかったんだ
──あの場はああするしかなかった
…………なんて、弱い自分なんだ。
ぐるぐると様々な考えが頭を駆け巡っている。
「う…ぐぅ…」
吐き気がする。
最近では部活のことを考えただけで気分が悪くなってしまっていた。
休みがほしい──
切実にそう思った。
最後の休日は、年末年始の、稽古納め後の二日間だけだった。
そして、それがこの部活に入って最初の休日だった。
あと二年、これを続けるのか──
「う…」
また気分が悪くなってきた。
体調の悪そうな僕を見て、今まで何も言わなかった父が、遂に話しかけてきた。
「大丈夫か?リック」
「……大丈夫だよ」
父の問いに答える。
すると、父はいつもの穏やかな表情から真剣な顔になり、僕に言った。
「お前さん、頑張る方向を間違えてるんじゃないのか?」
僕は父を見た。父は続ける。
「俺も若い頃はいろいろあってな。それで思ったんだ。辞める勇気を持つことも大事だと。どうせ頑張るんなら、辞める方向に頑張ってみたらどうだ?」
僕はその言葉にはっとした。
辞める勇気──か。
「……考えてみるよ」
目から鱗だった。
僕は今まで続けることこそが強さであり、正しいことだと思っていた。
だが、確かに辞めるということは勇気がいる。
それは背負うものが多ければ多いほど、相当の覚悟がいるだろう。
「……」
まだ、決められない。
コーチとの約束や自身の覚悟、そして先生の防具など、僕には背負うものがたくさんある。
奥歯を噛み締める。
それでも、辞められないんだ──
──
昼休みのチャイムが鳴る
僕は食堂の自販機でココアを買おうと、机から立ち上がり、教室を出た。
自販機まで着くと、自販機のすぐ横にたむろする二人組がいた。
その人物達は、お世辞にもちゃんとした学生とは言えず、ピアスを開け、髪を染めてズボンを腰まで下ろしている、そんな風体だった。
僕はクラスの赤田や吉田のことを思い出して、少し顔を顰め、そそくさとココアを買ってその場を離れようとする。
その時──「そこの一年生」とその人物に声をかけられた。
しまった、と僕は苦虫を噛み潰した気持ちで振り向くが、その人物は屈託なく僕に話し始めた。
「君、剣道部だろ?」
「は、はい」
ネクタイの色が三年生の色をしていたので、僕は敬語で返事をする。
「剣道部ってあの達人の先生が顧問なんだろ。すごいよな」
「は、はあ……」
僕は呆気に取られ、気の抜けた返事をする。
こんなことを言いに、僕に声をかけたのだろうか。
僕は少し億劫になるが、彼は続ける。
「でも、さっきから見てると君、ずっと落ち込んでるっていうか、暗い表情をしてるな」
「そう……ですか?」
僕はぎくり、と心の中を見透かされたような気がして、咄嗟に目が泳いでしまった。
「ああ、してるよ。事情は分かんないけど、そんなに肩に力を入れて生きなくても良いんじゃないか?」
気が付けば、僕は彼の話に耳を傾けていた。
「立派に生きるのもそりゃ大事だけど、今の自分がちゃんと、満足して生きれてるのかってことも考えたらどうだろう?この一瞬は二度と来ないんだ。それなら、自分が楽しく生きられる道を行ったらいいんじゃないかな」
「……っ」
心の霧が晴れていくようだった。
僕は自分の満足のいく人生を歩めているのだろうか?
今の自分を取り巻く環境を思い浮かべる。
…………答えは否だ
今の僕は、先輩達や先生の顔色を伺うことばかり考えて、規律や礼儀という名の鎖に縛られて身動きが取れない状態になっている。
選んでも、良いのか?
辞めるという選択肢を──
難しい顔をして考え込んでいる僕を見て、彼はそっと肩を叩いて軽く言った。
「まぁ、あんまり気負わなくていいんじゃないか?」
その言葉で、僕の心は少しだけ救われたような気がした。
「はい!ありがとうございました!」
僕は部活の先輩達に発するのとは違う”心からの礼”を言う。まさか見ず知らずの人物に背中を押されるとは思わなかった。
「おう、またな」
彼らは笑顔で手を振ってくれた。
教室に戻りながら僕は思う。
彼らの見た目は、お世辞にも立派とは言えない。僕の部活にいたら、間違いなくダメ人間認定されるだろう。
だが──思い出す。
自分の言うことを聞かないからといって暴力を振るう姿。そして上下関係に縛られ、それを見ていることしかできなかった僕。
彼らの方がよっぽど立派で、自分の頭で物事を考え行動できていると感じた。
「……」
勇気を出してみよう。辞める勇気を──
「部活、辞めようと思うんだ」
母に話があると言い、しばらく逡巡した後、僕はそう切り出した。
「そう、やっと決めたの……」
母はほっと安心したようにそう言った。
なんでも、最近の僕は痛々しくて見ていられなかったらしい。
「でも、どうやって辞めよう」
入部した時の鳥田コーチとの約束を思い出す。
“始めるからには三年間やり通すこと”と約束した。辞めるということは、それを破るということだ。
母は少し俯いて考え込み、やがて口を開いた。
「家に学費を払うお金がなくなって、それを稼ぐためにバイトをしなければいけないってことにすればいいよ」
「……!」
僕は驚いて母の顔を見た。
「いいの?辞める理由に家を使っても」
母は笑顔で頷いてくれた。
「もちろん。リックが元気になるなら、それが一番だよ」
ありがとう、とは言えなかったが、感謝の気持ちが湧き上がってくる。
「うん……そう……するよ」
嘘をつくようでまだ少し後ろめたさがあったが、そうでも言わないと、辞めることができないだろう。
僕は早速、頭の中で話を組み立てていく──
──
次の日、僕は小見山先生に「相談がある」と言い、放課後に時間を作って会ってもらっていた。
先に僕の担任である小見山先生から、織田先生に話を通しておいてもらうためだ。
「さてリック、なんの相談なんだ?」
小見山先生が普段通りの大きな声で問うた。
その変わらなさに、僕はほっと安心していた。
僕は家で練ってきた偽りの事情を説明する。
「あの……僕……家庭の事情でアルバイトをしないといけなくなって、それで部活を辞めようと思ってるんです」
「……」
「そのっ、本当に経済的に苦しくて……」
何も言わない小見山先生に焦った僕は言葉を重ねる。
小見山先生は静かに僕の話を聞いていたが、しばらくすると口を開き、僕に諭すように言葉を紡いだ。
「俺はお前のことは上等な人間やと思っとる。その話も、お前が家のことを思って決めたことだって分かってる。でもな、お前、それじゃ後悔するぞ」
「……っ」
まさか否定的な意見を言われるとは思っていなかったので、面食らってしまった。
「剣道部がめちゃくちゃ厳しいのは知っとる。そんな場所で今までやってこれたんだったら、生半可な覚悟で入ったわけじゃないんだろ。そんな場所を、自分の意志じゃないのに辞めてしまったら後悔すると俺は思う」
「……」
覚悟が──揺らいでしまう。
僕は確かに自分で辞めると決めた。小見山先生は、これが僕の意志ではないと思っているから言っていることだ。
だが、どうしてだろう。こんなにも揺らいでしまうのは──
「ぐっ……」
僕は葛藤を振り払い、先生にはっきりと告げる。
「これは僕の意志です。なので、後悔はしません。部活を辞めたいと思います」
──言ってしまった
小見山先生は静かに頷き、「そうか……それじゃもう俺から言うことはない」と言って黙り込んだ。
「ありがとうございます。あの……このことは織田先生に伝えておいてほしいんですけど……」
「わかった。伝えとく」
小見山先生はこくりと頷き、「もう行くぞ」と言って教室を出ていった。
その背を、僕は複雑な心境で見ていた──
──
「お前、辞めんのか?」
織田先生がまっすぐに僕を見て聞いてくる。
小見山先生に相談した次の日、僕は織田先生に呼び出されていた。小見山先生はもう織田先生に話しをしてくれたらしい。
僕は心の中で深呼吸をして答える。
「はい。家が経済的に厳しくて、アルバイトをしないといけなくなりました」
「そうか……」
織田先生はここで初めて険しい表情をして、僕に問うた。
「お前は、それで本当にいいのか?」
「……っ」
似たようなことを小見山先生にも言われた。
後悔はしない──と思う。
ぎゅっと拳を握る。
言葉を紡ごうとするが、声にならない。
──答えられない
口を開きかけたまま、止まってしまった僕を見て何かを感じたのか、織田先生は静かに話し出した。
「そんなに急に決断しなくてもいいだろう。再来週の卒業式の日にまた聞く。いいな?」
「は、はい」
織田先生は頷くと「もういいぞ」と言い、僕を下がらせた。
「失礼しました」
顧問室を出る。
──答えられなかった
後悔してしまうと、僕は心のどこかで思ってしまっているのか?
──分からない
釈然としない気持ちを抱えたまま、僕は剣道場を後にした──
──
二週間後、三年生の卒業式の日がやってきた。
卒業生は皆、体育館から僕たち在校生に見送られながら一列で歩いていく。
僕はある姿を探していた。
あの日、食堂横で僕に目の醒めるような話をしてくれた先輩だ。
彼とはあの後、何度か会っていた。
彼の言葉は、そのどれもが僕にとっては新鮮なものだった。
見つけた。
彼は友人と話しながら僕のいる方へと歩いてきた。
「あの、本当にありがとうございました!!」
精一杯の礼を告げる。
彼はこちらに気づくと、あの日と同じように笑顔で手を振ってくれた──
卒業生全員を見送り終えると、次は剣道場へ向かう。道場に着くと、すぐに部室に入る。
部室では、岩井先輩と国光先輩が笑顔で祝福されていた。
「ははは、俺よく二年間もここでやってこれたなって思うよ。もう一度やれって言われたら絶対無理だね」
岩井先輩は心底嬉しいと言った様子で言う。
「おめでとうございます」
僕も岩井先輩にお祝いの言葉を贈る。
「ありがとう、リック。お前も大変だな。家の事情でバイトしないといけないんだって?」
「……はい」
実は、もう家庭の事情で部活を辞めたいという旨を皆に話していた。
皆、一様に驚き、そして心配していた。
僕は少し罪悪感が芽生えたが、これも必要な嘘だと割り切るように努めた。
意外なことに、僕が辞めるかもしれないと聞いて、最も動揺していたのは高井だった。
彼は僕が事情を告げると驚愕し、しばらく何かを考え込んでいた。
彼は彼なりに何かを抱えているのだろうか。
「道場に集まって」
そんなことを考えていると、道場に呼ばれる。
道場に行くと、卒業生の先輩達が一列に並んでいた。
「今から皆で合唱するよ」
コーチがそう言うと、「栄光の架橋」が流れてくる。
歌っている途中、三年生は皆泣いていて、高井もつられて泣いているのが印象的だった。
歌が終わると、卒業生と握手を交わして、これからの旅立ちを祝う。
「ありがとな、リック。お前も頑張れよ」
国光部長が笑顔で僕に言う。
「は……はい。ありがとうございます。国光部長も卒業しても頑張って下さい」
あの日以来、僕は国光部長に苦手意識を持っていたので、少し詰まってしまったがなん
とか返事をする。
「さんきゅ」
部長はそう言うと、また別の部員のところに行った。
僕は周りを見渡す。
──皆、晴れやかな顔をしていた。
それを複雑な気持ちで眺める。
自分はこれから辞めようとしているのだ。
こんな表情で卒業していくことはもうできないだろう。
ずきり、と胸が少し痛んだ──
卒業生が帰った後、今度は何人かが僕の方へ来た。
「部活辞めても元気でいろよ」
森田がバシッと僕の背中を叩きながら言う。
僕は「ありがとう」と礼を言う。すると今度は寺田先輩が僕に近付いて来た。
「バイト、大変だろうけど頑張ってな!」
寺田先輩は微笑みながら応援してくれた。
「ありがとうございます。寺田先輩も次の部長、頑張って下さい」
今度は僕が、次の部長に決まった寺田先輩を激励する。
「ありがとな」
寺田先輩は照れたようにそう言った。
「リック、お前と同期で楽しかったよ」
今度は高井が、まだ赤い目で僕に言う。
「うん。俺も……高井と同期で良かったよ」
そう言葉を返して、ずきり、ずきりと胸が痛みを感じていることに気付いた。
何を言っているのだろう。
皆を騙して辞めるというのに──
「皆、こっちに注目して!」
その時、鳥田コーチが声を張り上げた。
「今日は稽古は無しで、このまま解散します」
鳥田コーチがそう告げると、皆大いに喜んでいた。
「リックは後で顧問室に来て」
「はい」
いよいよだ。
僕は皆と別れる。
一人道場に残り、顧問室の前に立つと、改めて道場を見渡す。
誰もいない道場は、初めて訪れた時のような静寂に包まれ、どこか神々しい雰囲気を纏っていた。
コン、コン、コン、と扉をノックをする。
ガチャリ、とドアを開けて部屋の中へ入ると、真剣な顔をしている織田先生と鳥田コーチが待っていた。
「失礼します」と言って二人の前で正座をする。
「「…………」」
静寂が広がる。
誰も言葉を発さない。
「……おう、お前のバイトの件な」
織田先生が切り出した。
「考えたんだが、お前を休部ということにしようと思う。どうだ?」
その言葉に僕は目を見開いた。
「休部……ですか?」
──休部
ということは、僕はこの部活に在籍したままになるということだろうか。
「ああ、そうだ。お前がいつでも戻ってこれるように、休部にする」
それは……困る。
僕はもうここを辞めて、新たな自分の道を歩むと決めたのだ。
あの信念はまだ捨ててはいない。だが、この場所での歩みは辞めると決めたのだ。
だけど──
思い出してしまう。
先生から貰った防具や、僕のことを誇らしげに話すあの先生の顔を。
口が渇く。
震えながら唇を開き、出た言葉は──
「……は……い。わかりました」
了承の言葉だった。
先生は静かにこくり、と頷いた。
「失礼しました!」
顧問室を後にする。
最後に見た織田先生の顔は、眉間に皺を寄せた難しそうな顔だった。
「リック!」
後ろから鳥田コーチが僕を呼んだ。
「リック……いつでも戻ってきていいからね」
鳥田コーチは心配そうな顔で、そう僕に言ってくれた。
「ありがとうございます!」
僕は礼を言い、そのまま背を向ける。
振り返りそうになる衝動を抑え、剣道場を後にした──
──
桜吹雪が風に舞う。
ひらり、ひらりと桜が舞い散る校庭の片隅。
僕は一人、空虚な気持ちで空を見上げていた。
あの日、辞めると最後まで宣言し通すことができなかった。
思い出すのは、先生やコーチの優しさや同期達との思い出。
ギリッと唇を噛む。
今になって、はっきりと罪悪感というものが、僕の中に沸々と湧いてきている。
どうやら、嘘をついた自責の念というものを、割り切れてはいなかったらしい。
──僕は先生達を裏切って逃げたのか?
自分の信念も、人も裏切り、逃げてしまったのか。
少し前まで、完全に吹っ切れたつもりでいたのに、今は後悔でその身を焦がしてしまいそうだ。
あの日から気まずくて、剣道場や織田先生からも距離をとっている。今更戻れるわけもなく、戻れたとしても僕が保たないだろう。
結局、”休部”という一番中途半端な結末で終わってしまった。
僕はあの日に……何もかもを捨ててしまった。
自分の信念も、約束も、恩義も──
何もかもを捨ててしまったのだ。
風がびゅー、と一際強く吹く。
後悔に打ちひしがれる僕の頭上に、ひらり、ひらりと桜の花びらが可憐に舞っていた。
あとがき
第一章 剣を捨てた日を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
僕の剣道部での記録は、この話で終わりになります。
結局、僕は部活を”休部”という中途半端な状態で行かなくなってしまいました。後悔と罪悪感、そして安堵、それらの感情がごちゃ混ぜになり、ラストのあのすっきりとしない終わりになりました。
僕が最初に踏み出した道は、あまりに厳しく、このような終わりになりましたが、この先さらに険しい道のりを歩んでいけたのは、この時の経験があったおかげだと、今では感謝しています。
第二章からも引き続き、読んでいただけると嬉しいです。

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