
第3節 波乱の初出勤
暑さのピークを超えた八月の終わり。
僕は今走っていた。
額には嫌な汗を浮かべ、顔面は蒼白になりながら時間を気にする。
もうすぐ約束の時間だ。
このままでは間に合わない──
なんでこんなことになったんだ……
汗でぐっしょりと濡れたシャツの重みを感じながら、僕はさっきまでの出来事を思い返した。
──
「もうそろそろ時間だな」
僕は時計を確認して家を出る準備をする。
今日はアルバイトの初出勤の日だった。
玄関を出てエレベーターに乗り、自転車の駐輪場へ行く。
鍵を解除してペダルに跨り、自転車を走らそうとした時、
ガタン、ガタン、と小さく上下に揺れる感覚があった。
これはもしや……と思いタイヤを触ると、一切の抵抗を感じることなく陥没してしまった。
──パンクしてる
“パンクしたまま行くか”
いや、もう使い物にならないだろう。
“自分で走っていくか”
こんな真夏の暑い中をバイト先まで走り続けるなんて無茶だ。
僕の頭は一瞬でフル回転を始めた。
その結果、近くの自転車屋に行き、修理を依頼するという結論が出た。
うまくいけば十分程で修理してくれるのではないだろうか。
僕は急いで近くの自転車屋に向かった。
「すみません。パンクしてしまって、修理できませんか?」
自転車屋に着くと、僕はすぐに事情を説明して、タイヤのチューブを交換してもらうように頼んだ。
だが──
「兄ちゃん、このタイヤのチューブは取り寄せないと在庫がないから、二、三日はかかるぜ」
僕の考えは甘かった。
「わ……分かりました。それでお願いします」
僕は渋々了承し、ある決意をする。
──自分で走って行くしかない
「失礼します」
自転車屋を後にした僕は、全速力でバイト先に向かう。
もうあと三十分を切っている。
急がないと──
──
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
「ぐっ……!」
自転車さえパンクしなければ……
なんで確認しなかったんだ。
先程までの出来事を思い出していた僕は、自分の愚かさに、情けなさを通り越して怒りすら湧いていた。
それにしても暑い──
八月の終わりとはいえ、まだまだ暑い。先程から強烈な日差しが太陽から降り注がれている。
僕は流れる汗を拭いながら走る、走る、走る。
気がつけば、周囲の景色は見覚えのないものに変わっていた。
おかしいぞ。前はこんな場所通っていない。
──道を間違えた
その可能性に思い至った瞬間、慌てて来た道を引き返す。しかし、もう既にどの道が正解なのか、分からなくなってしまった。
時間はあと十分を切った。
これは間に合わない。
初出勤で遅刻だ──と僕は真っ白になってしまった頭でどこか遠く考える。
──このまま帰ろうかな
──どうせ間に合わない
そんな考えが浮かんでくる。
ぶんぶんと頭を振る。
そんないい加減なことはできない。そんなことをしてしまったら、紹介してくれた姉の幼馴染や、僕のバイトを紹介してくれるよう頼み込んでくれた母や姉に合わせる顔がない。
電話をしよう──
携帯電話を取り出し、僕は早速走りながら電話をかけた。
プルルルル プルルルル
ガチャっと音がなり、店長が電話に出た。
「おお、リックか。どした?」
「あ、あの、はぁっ……すみません。ちょっと……はぁ……遅れそうで……はぁっ」
息が切れて、言葉が途切れ途切れになってしまったが、なんとか伝えることが出来た。
「そうか……わかった。あとどれくらいで着く?」
「あ、あと……二十分くらいです……」
「わかった。じゃあ落ち着いて来るんだ」
「はい、失礼します」
電話を切る。
咄嗟に二十分と答えてしまったが、それだけで着くのだろうか……
「ぜぇっ、ぜぇっ、ぜぇっ」
それにしてもきつい。
この炎天下の中、水分も摂らずに全速力で走り続けているのだ。
たまらず膝に手をつく。
「ぜぇっ、ぜぇっ」
頭がクラクラする。
もう約束の時間は過ぎている。せめてあと二十分以内に着かなければ。
そんな時、近くの店から出て来た通りすがりの女性が声をかけてきた。
「あなた、大丈夫!?汗が凄いわよ」
女性は目を丸くして僕に近寄る。
「あ、はい……ぜぇっ……大丈夫です」
「大丈夫そうに見えないわ。何があったの?」
親切そうな女性に事情を聞かれ、僕は今日がバイトの初出勤であること、道に迷って困っていることを説明した。
全て聞き終えると、女性は頷き、僕にこう言った。
「わかったわ。おばさんが車で”ロース”まで連れて行ってあげる」
「あ、ありがとうございます!」
なんと、車に乗せてくれると言うのだ。
なんて親切な人だろう。
そう感動していた僕は、女性が「ロース」と言ったことに気がつかないまま、車に乗り込んだ。
「じゃあ、バイト頑張ってね」
そう言って女性は車で去って行った。
「……」
僕は現在、全く見覚えのない場所にいた。
どうやら女性は僕のバイトの名前を間違えて聞いていたらしい。
せっかくの親切に水を差すようなことは出来なかったので、この場所に着いた時に何も言えなかった。
ど、どうしよう──
途方に暮れる。
さっき電話で話した二十分ももう過ぎている。
どうする?
何気なく辺りを見渡す。すると、近くに小さな交番があるのが見えた。
……そうだ。交番に行こう。
交番なら道を教えてくれるはずだ。
僕は藁にもすがる思いで走った。
「す、すみません。み、道を教えてほしいんですけど」
「君、大丈夫か?汗だくじゃないか」
交番には二人の男性がいた。
一人は若くて、もう一人は壮年の男性だった。
「とりあえず座って」
「あ、はい」
「事情を説明できるかな?」
壮年の男性の方が説明を求めてくる。
僕は流れ落ちる汗を拭いながら、たどたどしく事情を説明する。
途中、若い方の警察官がお茶を持って来てくれたので礼を言う。
全て説明し終えると、壮年の警察官は考え込み、やがて口を開いた。
「このまま放っておけないしな……よし分かった。パトカーで君をバイト先まで送ろう。”カルビ”でいいんだな」
「……!?は、はい!ありがとうございます!」
なんと、パトカーでバイト先まで送ってもらえるようだ。
僕は精一杯の礼をする。
まさかパトカーの中に乗る日がくるなんて……
緊張しながらもパトカーに乗り込む。
「シートベルトは締めたな。それじゃ行くぞ」
パトカーは走り出す。
手持ち無沙汰になった僕は運転席と助手席の方へ顔を向ける。
──かっこいいなぁ
僕を目的地まで運ぼうとしてくれている二人はとても眩しく、輝いて見えた。
やがてパトカーはバイト先に着き、僕はパトカーを降りる。
「それじゃ、次からはくれぐれも迷わないように」
「はい!ありがとうございました!」
警察官達は去って行く。
遂に到着した。
約束の時間から四十分は過ぎていたが、なんとか無事に到着することが出来た。
裏口の階段を上がり二階に行く。
ノックをして入ると、店長が出迎えてくれた。
「お、遅れてすみませんでした!」
「やっと来たか。さ、こっちの更衣室で着替えて」
更衣室に案内される。
更衣室は男性用と女性用に分けられていて、僕は男性用の更衣室に案内された。
「靴は26cmでよかったな。これ、キッチンのユニフォームだから、これに着替えて」
そう言って、青いエプロンと白いシャツ、黒いパンツを渡された。
僕はびしょびしょの服を脱ぎ、それらに着替える。
その途中、ハンカチで汗を拭う。
「お前、遅刻したんだぞ。分かってんのか?」
店長が冷たい声で僕に言う。
「は、はい!」
急いで着替える。
──怒っている
考えてみれば当然だ。なにせ四十分も遅刻したのだから……
僕が着替え終わると、店長は更衣室のドアを開けて、店内を案内してくれた。
「ここがキッチンだ。お前にはこの一番手前の赤身肉を担当してもらう」
「はい!」
「あとはこの西中に聞いてくれ。西中、頼んだぞ」
「はい、任せてください」
店長はそう言って仕事に戻って行った。
西中と呼ばれた男性は自己紹介を始める。
「俺は西中。よろしく。君は?」
「僕はリックです。よろしくお願いします」
「じゃあ、リッキー。やり方教えるから見とって」
中国地方の出身なんだろうか。
独特な発音で話す人だった。
「まずボールを置いて、その中にタレと油を入れて混ぜる。そこの機械からオーダー用紙が出るから、それを確認して、下の冷蔵庫から肉の乗ったトレイを出して何人前かを計量する」
僕は頷きながらメモを取る。
「終わったらさっきのボールに入れて混ぜる。最後に大、中、小、の皿を選んで盛り付ける」
「簡単やろ」と西中さんは言う。
僕はメモを見ながら頭の中で手順を反芻する。
「とりあえずやってみぃ」
西中さんの言う通りにやってみる。
オーダーの紙を取り、何人前かを確認。
下の冷蔵庫から何の種類かの肉を確認して取り出す。
計量し、何人前かを確認してからボールに入れて混ぜ、さらに盛り付ける。
「そうや。さっき肉の種類確認しとったけど、慣れれば確認しなくとも、分かるようになるから安心するけん」
「はい」
ふぅ、なんとか出来た。
だが僕がやったのは一種類の肉だけだ。
西中さんは次々と出てくるオーダーを機敏な動きで捌いている。
流石、食べ放題なだけあって皆よく注文をする。
時々、オーダーがシンクにまで届き、ぐるりと一週回っているが、それも危なげなく捌いていく。
──すごい
僕はこんな機敏な動きができるのだろうか。
剣道部でのことを思い出す。
動きが遅くてイライラされていた自分を。
ダメだ。今は集中しないと──
改めて周りを見渡す。
キッチンは逆コの字型になっており、ホールから見て、一番手前が僕の担当である赤身肉の場所だ。
そして隣がホルモンや塩タンを担当する白身肉担当で、角を曲がった先には、汁物やご飯物を担当するポジションがあるらしい。
皆、とても忙しそうだ。
その中でも僕の担当する赤身肉は際立っている。
オーダーの量が半端ではない。
それを捌いている西中さんは本当にすごいと思う。
やがて僕の出勤時間が終わり、店長がこちらに来る。
「お前、少し顔色悪いから家でゆっくり休めよ」
「は、はい。ありがとうございます」
実は少し気分が悪かったのだ。
店長は見抜いていたらしい。
僕は礼を言い、服を着替えて外に出る。
「すぅーーはぁーー」
深呼吸をする。
初出勤で遅刻をしてしまった。
ダメだな。僕は……
肩を落とした僕は、とぼとぼと自転車に向かい、のっそりとペダルに跨る。
そのまま暗い気持ちで自転車を漕いだ──
──
家に着き、母が作ってくれた食事を摂る。
「今日はどうだった?」
母が今日の様子を聞いてきた。
僕は今日あったことを全て話した。
すると、母は僕を激しく叱責し出した。
「何をやってるの!情けない。あんた真里ちゃんの顔に泥を塗ったのよ」
真里ちゃんとは姉の幼馴染の名前である。
彼女の信用を傷つけることをしたのだから、母の怒りは尤もだ。
だが、今日は完全に自分が悪いと分かっていたので、責められる度に胸を抉られる思いだった。
途中で父が仲裁に入ってくれたので、それ以上の叱責がなかったのが救いだ。
部屋に戻り、項垂れる。
何をやってるんだ僕は──
今日起きたことは全て自業自得だ。
剣道部から何も変わってないじゃないか……
母の言った「情けない」という言葉が胸を締め付ける。
「……っ」
胸が痛い。
項垂れたまま目を瞑る。
切り替えろ──
まだ始まったばかりだろと自分を鼓舞する。
下に向けていた顔をのっそりと上げ、メモ帳を取り出して今日の復習をする。
そのペンを握る手は、微かに震えていた。

コメント