
第12節 証
「あの、まだ剣道をやったらダメですか?」
僕は医者にそう質問した。
医者はその質問を聞き、呆れたようにため息を吐いてから僕に言った。
「あのね、君、骨が折れてるんだよ。これで何回目なんだ?」
「し、失礼しました…」
怒られてしまった。
怪我をしてからもう三ヶ月以上も経っている。その間稽古もできておらず、学校では仮病ではないかと言われているので、気が焦っているのだ。
「とにかく、焦らず安静にしておくこと。わかったね」
「はい」
医者はそう言って、今日の検診はこれで終わりだと締め括った。
「ありがとうございました」
僕はそう言って退室する。
まだ、動かせないのか──
僕は本当に焦っていた。
最近ではクラスメイトだけでなく、あの織田先生もまだなのかと、待つことに痺れを切らしているようだ。
今回もまた安静にするように言われたと、同じ報告をしなければならない。
はぁ、とため息を吐く。
気が重い。
僕は肩を落としながら帰路につくのだった──
──
「はぁ、はぁ…」
「おい、リック」
片足スクワットを終えて、次の筋トレに移ろうと蹲踞の姿勢をとった時、道着姿の織田先生が僕を呼んだ。
「はい」と僕は蹲踞の姿勢を崩して先生の方へ行く。
「お前、竹刀握って振ってみろ」
「え、あ、はい」
僕は言われた通りに竹刀を握る。
竹刀を持つくらいならもう痛みはない。だが素振りはどうだろうか。
一応医者には安静にしておくように言われたのだが──
僕は固唾を呑みながら竹刀を振ってみる。
ブンっ
竹刀は気持ちのいい風切り音を響かせながら空を切る。
──痛みはない
もう一度振ってみる。
ブンっ
やはり痛みは感じなかった。
「よし、次は切り返しをしてみろ。鳥田、受けてやれ」
「はい」
織田先生は僕の素振りを見た後、鳥田コーチに僕の切り返しを受けるようにと指示をした。
確かに素振りをしても痛みを感じなかったが、大丈夫だろうか?
僕は疑問に思いながらも構える。
心の中で深呼吸をし、鳥田コーチを見据える。周りの稽古の音が徐々に遠くなっていく。
久しぶりだ。
腕の状態がまだわからないから、まずは軽くいこう。
「ヤァーー!」
掛け声を上げる
「メェーーン!」
パコーンと小気味の良い音が鳴り、切り返しをしていく。
「メンメンメンメンメェーン!」
──軽い
なんだか以前よりも竹刀を振る腕が軽い。足も重点的に鍛えたおかげか、足捌きがより鋭くなったように思う。
それに──痛みを全く感じなかった。
「それだけやれたらもう大丈夫だろ。お前、稽古に戻れ」
「…!?」
だ、大丈夫だろうか…
確かに痛みは感じなかったが、医者からはまだ安静にするような言われている。しかし、僕の心配とは裏腹に「はい!」と、口は勝手に動いていた。
ダメだ。できませんなんて言えない。
織田先生は続ける
「もうすぐ昇級審査があるからな。お前はそれに出ろ」
──昇級審査?
「それに受かったら剣道一級の資格を持てるの」
鳥田コーチが補足をしてくれた。
一級……僕が?
身体の内から熱いものが込み上げてくる。
これは、憧れのあの姿に近づく一歩になるだろう。
一級になりたい──
そう思った。
僕は早速部室に行き、ギプスを外す。ギプスを外すのはこれまで何度かやっていたので、問題がないのは確認済みだ。
そしてしばらく着ていなかった道着に袖を通す。
久しぶりに着ると、とてもしっくりきた。
防具を脇に抱えて、部室を出る。
稽古の邪魔にならないところで防具をつけ、面の前で正座をする。
「ふぅ…」と一息吐く。
やはり若干腕に不安が残る。防具をつけての稽古は激しい。
また折れるのでは──と一抹の不安が拭いきれない。
「……よし!」
気合いを入れてその不安を吹き飛ばし、面をつけていく。
面をつけ終わり、皆と同じ列に並ぶと、久方ぶりの稽古の感覚が蘇ってくる。
「「ヤァーー!!」」
「「メェーーン!!」」
間近で聞くその気迫は、やはり身体の芯から響き渡るほどの迫力に満ちている。
知らず、竹刀を握る手に力が入る。
──戻ってきたんだ
僕は緊張と高揚が混じり合ったような感覚に陥っていた。
腕のこともあるが、今は実力を磨いて昇級したい──
順番が来た。
僕は相手を見据え、正眼に構える。
小さく息を吸い、気迫を込めて掛け声を発した──
──
「正面に、礼!先生に、礼!」
「「ありがどうございました!!」」
今日の稽古が終わった。
「リック、ちょっと来い」
「は、はい!」
稽古が終わってすぐに、僕は織田先生に呼ばれた。
──なんだろうか?
以前にも、先生から個別で呼ばれたことはあるが、何度呼ばれても、何か怒られてしまいそうで不安になってしまう。
「お前は今から昇級審査の練習をしろ」
「は、はい!わかりました!」
──今から?
確かに今日は土曜日で、稽古終わりとは言ってもまだ昼だ。時間は十分にある。
「鳥田、相手をしてやれ」
「はい」
どうやら鳥田コーチが練習に付き合ってくれるらしい。
「いい、リック。昇級審査は木刀での基本稽古法と防具を着けての切り返し、基本打ちと互角稽古をするの」
「あの、互角稽古ってなんですか?」
「実力が近いもの同士が、試合みたいにお互い一本を取り合う稽古よ」
なるほど──試合みたいなものか。
「じゃあ、木刀は準備してあるから、これを持って」
そう言って鳥田コーチは手に持っていた木刀を僕に渡す。
僕は木刀を受け取ると、早速構えてみた。
──思ったより軽いんだな
木刀は竹刀に比べて軽かった。
「それじゃ、基本稽古法を教えるね。まずこの稽古法は九本まであるの。この九本の動きを、打つ方と受ける方に分かれて、決められた動きでこなしていくの」
──九本……
多いな。
果たして僕に覚え切れるのか──自信がない。
「実際に私と織田先生がやってみるから見ててね」
鳥田コーチはそう言うと、織田先生に「お願いします」と頭を下げた。
織田先生は「俺がやるのか?」と少し笑いながらも頷いてくれた。
これは、ひょっとして凄いものが見られるのではと、僕は胸を高鳴らせた。
織田先生ほどの人物の型を見られるのはすごく貴重なのだと思う。
有難いことに、鳥田コーチはその貴重な光景を僕に見せたいと思ってくれたのだろう。
二人が木刀を持って向かい合う。
ごくりと、僕は固唾を呑んで見守る。
二人はとても静かだった。
身体に余計な力などは入っておらず、まるでその景色の一部であるかのように自然体だった。
やがて二人は動き出す。
「やぁぁっ!!」
織田先生が面を打つ。
その木刀の切先はしかし、鳥田コーチの顔の前で止まっていた。
寸止めというものだ。
この基本稽古法は防具をつけていないため、相手に木刀を当ててしまったら、即刻失格となるのだ。
織田先生は面を打ったあと、ゆっくりと元の位置に戻る。
そして再度、三歩進み、今度は小手を打つ。
「やぁぁぁ!!」
今度も寸でのところで木刀を止めている。
──すごいな
僕はあんなギリギリのところで寸止めができる自信がない。ゆっくりと打てば出来るのだろうが、それでは合格できないだろう。
これは難しいぞと、僕は今から身体が力んでしまっていた。
それからも鳥田コーチと織田先生は、九本目までの型をやり通して僕に見せてくれた。
やがて二人は礼をして解散し、鳥田コーチが僕のところに来た。
「大体の流れはわかった?」
「はい!ありがとうございました!」
僕は礼を述べる。
本当に凄かった。
二人とも終始凛とした佇まいで、動いている時と止まっている時のメリハリもはっきりしており、見ていて引き込まれるようだった。
「じゃあ、実際にやってみようか」
「はい!」
僕は持っていた木刀を構える。
「力まないでいいから、もっと力を抜いて」
「は、はい!」
どうやら、もう力んでしまっていたらしい。
僕は肩の力を抜いて構え直す。
「うん。じゃあまず一本目から」
「はい!」
僕は木刀を構えながら、ゆっくりと歩を三歩進める。
「やぁ!」
面を打つ。
だが、その切先は鳥田コーチの顔の遥か前で止まっていた。
そのまま一歩下がって木刀を正眼に戻し、ゆっくりと三歩下がる。
「リック。力み過ぎてるよ。打つ瞬間にもっと力を抜いて」
「はい…」
どうやらまた力んでいたらしい。
だが実際にやってみて思ったが、面をつけていない相手の顔に木刀を振り下ろすのは、想像以上に恐怖を感じる。ましてや、織田先生のように相手の目と鼻の先に寸止めをするなど、想像するだけでも手が震えてしまう。
──ま、まずいな。怖いぞ
僕は震える手を押さえながら木刀を握る。
そんな僕を見ていた鳥田コーチは、こちらにやってきた。
「大丈夫。ちゃんと今までの素振りをやっていれば相手に当たることはないから」
と、まるで僕の考えを見透かしたように、僕を安心させる言葉を言って、元の位置に戻っていった。
今までの素振りか──
思い出せ。
肩の力を抜いて、振り下ろすと同時に手首のスナップを効かせて、手の内を雑巾のように締める感覚を。
──よし、やってみるぞ
僕ば再度木刀を構えて三歩進み、今度は小手を打つ。
「コテェー!」
やはり寸止めとは、ほど遠い位置で止まるが、それでも先程よりも思い切り打つことができた。
よし!これなら練習すればなんとかいけそうだ。
この後も、九本目が終わるまで、鳥田コーチは練習に付き合ってくれた。
練習が終わり、互いに礼をする。
「ありがとうございました!!」
僕は心からの礼をした。
鳥田コーチは、何度も失敗する僕を根気強く指導してくれて、最後の九本目までやり通してくれのだ。
感謝の気持ちが胸の内から溢れてくる。
「織田先生終わりました」
コーチが織田先生に報告する。
織田先生は壁に寄りかかりながら、僕と鳥田コーチの練習をずっと見ていたみたいだった。
「おう、こんだけできれば受かるだろ」
鳥田コーチの報告を受けた織田先生は、腕を組みながら、とても上機嫌そうな笑顔でそう言った。
それを聞いた瞬間、僕はほっと肩の力が抜けたような気分になった。
どうやらずっと緊張していたらしい。
今の織田先生の言葉で、僕はようやく安心することができたようだ。
「頑張って行ってきます!」
僕は勢いよく二人にそう告げた──
──
「リック、こっちが受付だよ」
鳥田コーチがそう言って僕に手招きする。
「あ、はい。今行きます」
僕は人の合間を縫ってコーチの方へ向かう。
今日は昇級審査のために、ある総合体育館に来ていた。
それにしても人が多いな──
僕は思っていたよりもたくさんいる受験者に、今更ながら不安になってきていた。
──落ちたらどうしよう
先程からずっと同じ考えが頭をよぎっている。
「リック、めっちゃ不安そうな顔してるよ。大丈夫。織田先生も言ってたでしょ」
「は、はい…頑張ります」
よっぽど不安そうな顔をしていたのか、鳥田コーチが励ましてくれた。
今日は僕の付き添いにコーチだけが来てくれている。正直一緒に来てくれたのが彼女で助かった。これがもしも織田先生だったなら、僕の胃に穴が空いていただろう。
僕は受付を済ませて番号を受け取る。33番だ。どうやらこの番号が受験番号らしい。
番号を受け取った僕は、一旦鳥田コーチと別れ、受験者が集まるグループに入る。
ここで番号が呼ばれるのを待つみたいだ。
コーチは別れる時に、「頑張ってね」と僕を激励してくれた。
「すぅーーはぁーー」
僕は小さく深呼吸をする。
とても緊張する──
思えば僕は、こういった大勢の中で、何かを披露して評価をされる場に出たことがない。
これが初めてなのだ。
手が震える。
落ち着け──と気を静めようとする。
しかし、手の震えが治まることはなかった──
「では、31番から40番までの受験者は前に出て下さい」
──僕の番だ
僕は最後に面紐が捩れていないか、帯が下に垂れていないかを、さっと軽く確認してから体育館の中央へと向かう。
審査では着付けも重要な審査項目らしく、僕はいつもよりも丁寧に道着と防具を着付けていった。
「33番はあそこに行ってください」
指示された通りの位置につく。前方には、僕の相手になるであろう人物が立っていた。
「今からその相手と切り返しをしてもらいます。まずはこちらが打太刀」
審判はそう言ってこちらの方の手を挙げた。
打太刀。こちらが先に切り返しをする側ということだ。
緊張がピークに達する。
──落ち着け、僕
緊張で呼吸が荒くなるが、そんなことは関係なしとばかりに、審判は始まりの合図を告げた。
「イヤァァーー!メェーン!」
僕は緊張を気合いに変え、相手に打ち掛かる。
「メェェーーー!」
無我夢中で相手の竹刀に打ち込んでいく。
「ェーーン!!」
切り返しが終わる。
「ヤァーー!メェーン!」
最後に面を打ち、僕の番は終わった。
「はぁ、はぁ、」
もう息が乱れている。
やはり緊張で息が荒くなっているのか、いつもよりも早く疲弊しているみたいだ。
「次は互角稽古をしてもらいます。構えて!」
息を吐く暇もなく、互角稽古が始まる。
僕は急いで構えた。
「始め!!」
「「ヤァーー」」
始まりの号令が掛かった瞬間、僕と相手は掛け声を上げる。そのまま間合いを詰めていき、相手に面を打つ。
「「メェーーン!!」」
まったく同時に面を打ち合う。
パコーン、と互いの面が入り、そのまま鍔迫り合いになる。
僕は面を打たれたことに焦り、すぐに引き面を放つ。だが相手もすぐに同じように引き面を打ち、これも同時に互いに入ることになった。
──ダメだ。もっと打たないと
僕は、なかなか相手に対して優勢に出ることができずに、とても焦っていた。
間合いや読み合いなど、考えることができずに、ただがむしゃらに相手に打ち込むことしかできなかった。
「やめぇー!!」
審判が終了の号令を掛ける。
僕にとっては、とても長い互角試合が終わった。
「次は基本稽古法をしますので、防具を脱いでもう一度集まって下さい」
僕は防具を外しに一度下がる。
今になって頭が冷えてきたのか、先程の自分の試合を思い出して思わず唇を噛んだ。
いくら緊張していたとはいえ、何も考えずにただひたすら突っ込んでしまった。
落ちたかもしれない──と肩を落とした。
「では、並んで下さい」
防具を外し、今度は道着姿で木刀を持って相手と向かい合う。
「こちらが打太刀」
また僕が打太刀だ。
互いに礼をして、木刀を構える。
僕は今度こそ失敗をせずにやり切ると、気合いを入れていた。
「それでは、一本目。始め!!」
大丈夫だ。何度もコーチと練習したんだから。
自分に言い聞かせながら三歩進む。
一旦止まり、相手の間合いに一歩入ってから面を打つ。
「やぁ!!」
もちろん寸止めだ。
木刀は相手の顔の前でぴたりと止まっている。
──よし、いけるぞ
しっかりと木刀を振れていることが確認できた僕は、内心ほっと胸を撫で下ろしていた。
今日は調子が良さそうだ──
一歩下がり、今度は小手を放つ。
「やぁ!!」
──!?
今、少し木刀が相手の手首に触れたかもしれない。
瞬間、僕は目の前が暗くなったような錯覚に陥った。
木刀が相手に触れるようなことがあれば、即失格だ。今の僕の小手は確かに相手に触れたように思う。
──終わった
先程までの気合いはすっかり失われてしまい、僕の胸にはただ暗い感情が残っているだけだった──
──
「お疲れ様!よく頑張ったね。結果はもうすぐ出るみたいだよ」
審査が終わり、すっかりと意気消沈した僕に鳥田コーチはそう言った。
コーチはどんよりとした雰囲気の僕を気遣ってか、努めて明るく振る舞ってくれている。
「……落ちたかもしれないです」
僕は相変わらず暗い調子で言う。
「まだわからないよ。練習の通り、上手くできてたし」
「そうですか…」
あの後、僕は相手に触れたかもしれないという不安で頭がいっぱいになり、審査に集中できなかった。
だが練習の成果か、身体はしっかりと動いてくれたみたいで、それ以外のミスらしいミスはしなかった。それだけが救いだった。
「あ、ほら…合格者の番号が貼り出された。見に行こう」
鳥田コーチに連れられ、体育館の中央に貼り出された合格者一覧が見える位置にやってきた。
──嫌だな。見たくない。
僕はすでに自分が失格になっていると思っているので、なかなかそのホワイトボードを見ることができなかった。
「ほら、リック。ボードを見てみて」
コーチに促され、恐る恐る見てみる。
僕の番号は33番だ。
番号を小さい数字から順番に見ていく。
29、31、32、33…
──あった!
その数字を確認できた瞬間、喜びに震えた。
絶対落ちたと思っていたのに。
まさか合格するなんて──
笑顔が溢れ出す僕を見て、コーチは「よかったね」と一緒に喜んでくれた。
僕は思う。
この一級は、まだほんの些細なものなのかもしれないが、これは “証” だと。
勇気を出して一歩を踏み出し、そして人生で初めて自分で掴み取れたもの。
歓喜に打ち震えるその手は、ぎゅっと賞状を力強く握っていた──

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