第一章 剣を捨てた日【第10節】夏合宿(後編)

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第10節 夏合宿(後編)

一体……どうしたらいいのだろう…

僕は地面に転がっている面と、だらりと垂れ下がっている左腕を交互に見て、半ばパニックに陥っていた。

──どうする?

“このまま午後も稽古を続けるか”

“いや、この状態で稽古は不可能だ”

──どうする?

“でも腕が痛いので途中で合宿を抜けますなんて言えない”

“そもそもあの先輩や先生が許すとは思えない”

──どうしよう?

一瞬で僕の頭に無数の考えが流れていったが、結局答えはでなかった。

僕はまたちらりと左腕を見る。

──とりあえず動くか試してみよう

垂れ下がったままの左腕に力を入れていく。

「ぐっ…」

──っ!

鋭い痛みが走るが、なんとか耐える。

今度はゆっくりと腕を上げる。

「……っ!」

やはり瞬間的に痛みが走るが、動かしてしまえば意外と大丈夫かもしれない。

腕はなんとか動かせるみたいだ。

動かせるということは骨は折れてはいないのか──

僕は試しに拳を握って開く動作をゆっくりと繰り返してみた。

動く。

ならばこのまま稽古を続けることができるかもしれない。

──よし、やってみよう

僕はこの状態のまま稽古を続けることにした。

そうと決まれば、早く行かないと──

僕だけだいぶ遅くなってしまったので、早く食堂へ行かないといけない。

僕は左腕をぶらりと下に伸ばしたまま、なるべく動かさずに急いで食堂へ走っていった──

──

食事が終わり、今は午後の稽古の準備をしているのだが、僕は不安でいっぱいだった。

本当にこの腕で稽古ができるのか──

食事中も箸を持つ腕が痛み、ただひたすらそれに耐えながら食事を口に運んでいた。

竹刀を手に持ち、構えてみる。

そのまま素振りをする。

──っ!

「ぐっ…」

素振りをした瞬間、鋭い痛みが走る。

やはり素振りは負担が大きいのか──

でも──できないことはない。

痛みがあるのは竹刀を振り下ろす一瞬だけだ。それだけならば耐えられる。

「着座!!」

号令が掛かった。

これから稽古の続きが始まる。

──よし…やってやる

僕はつーと一滴の汗が、顔の輪郭に沿って滴り落ちるのを感じていた。

「面着け!!」

号令が掛かった瞬間、急いで面を顔に被せ、面紐を結ぶ。

……ぐっ、やはり腕が痛むが、無理やり紐を結ぶ。ただでさえ面着けが遅いのに、さらに遅くなってしまったら、後でなんて言われるかわからない。

そう思うと、不思議と耐えることができた。

相変わらず一番遅い僕が面を着け終えると、

「基本打ち!始め!」

基本打ちの号令が掛かる。

どうやら試合稽古ではないらしい。

──助かった

僕は激しいぶつかり合いになる試合稽古ではないことに、ほっとしていた。

竹刀を構える。

少し痛むが、気合いで誤魔化す。

「イヤァーー!」

「メェーーン!……っ!!」

面を打った瞬間、激しく鋭い痛みが走った。

「うっ…!?」

僕は残心をとった後、次の打突を躊躇した。

考えていなかった──

相手を打突する瞬間の衝撃が、ひどく腕に響くのだ。

ということは──僕は相手を打つ度に、腕の痛みを耐えなければならない。この稽古中に一体どれだけの数の打突をするのだろう。

ごくり、と唾を呑み込む。先程から脂汗が止まらない。

「おい!早く打てよ!」

僕が打つのを躊躇っているので、先輩が痺れを切らして早く打つようにと催促してきた。

──悩んでる場合じゃない

この場では弱音は許されない。

それに痛むとはいっても打突する一瞬だけだ。僕は自分にそう言い聞かせ、再度面を打つ。

「メェーーン!!」

パァン、と小気味良い音が響く。

やはり衝撃が腕に響くが、最初から痛むことをわかってさえいれば、耐えられる。

──大丈夫だ、いける

そう、思うことにした──

──

「掛かり稽古!!」

掛かり稽古の号令が掛かった。

これが終われば、やっと今日の稽古が終わる。

「はぁ…はぁ…ぐっ…」

あれからどのくらい打突をしただろう。

僕の腕は最早感覚がなくなってきていた。

だがそれが今は有り難い。

とりあえず、本日最後の稽古だ──頑張ろう。

「イヤァーー!!」

腕に感覚がないことの不安を振り払うように、全身全霊で掛け声を上げる。そのまま間合いを詰め、面、小手、胴、と元立ちが空けてくれる打突部位を打っていく。

やはり痛みは感じない。

何度目かの掛かり稽古を終えると、「やめ〜〜!!」と号令が掛かった。

──やっと…終わった

僕は長い稽古が、ようやく終わったことにひどく安堵していた。

礼を終え、雑用も終えると、痛みがまたぶり返してきた。

腕を動かさなければ痛みはない。だが、動かそうと思えば、途端に激しい痛みが襲ってくる。明らかに、稽古が始まる前よりも激しい痛みである。

これはダメだ。もしかしたら折れてるかもしれない──

この時になって、ようやく僕は骨折を疑った。

──織田先生に言ってみよう

ここまで悪化したら仕方がないと、僕は憂鬱な気分になりながら顧問室を目指すのだった。

コン、コン、コン、とノックをし、「リックです。織田先生に話があり、参りました」と伝えてから中に入る。中に入ると、織田先生と鳥田コーチがいて、何かを話しているところだった。

「どうしたの?リック」

鳥田コーチが不思議そうに聞いてくる。

「はい。さ、先程から腕が痛むので、病院に行きたいと思い……」

うまく言葉が出てこない。

すると織田先生が怪訝そうな声で言った。

「病院?お前、腕怪我してんのか?」

「は、はい…たぶん…」

先生のその声にしどろもどろになってしまう。

「いつ怪我した?」

「え、えと面を持った瞬間、力が抜けて…

それから痛みます」

なんとか問いに答えることができたが、これで伝わるとは思えない。

「………?」

織田先生は何を言っているのかわからないと、首を傾げていた。

「腕、見せてみろ」

「はい」

僕は腕を見せてみるが、痛みのわりに腫れてはいなかったので、一見異状はなかった。

「お前、それ筋肉痛じゃねぇのか?」

織田先生は一見何も異常がない僕の腕を見て、そう結論づけたらしい。

「あ、筋肉痛って感じでは…ない気がします」

「そうか?」

織田先生は訝しげな様子だ。

これはダメだ。完全に怪しまれている。おそらく信じてもらえないだろう。

最悪、僕がサボりたいがために嘘を言ってるのだと疑われているかもしれない。

──それは嫌だ

防具を譲り受けたことを思い出す。

せっかく認めてくれたのに、失望させることはしたくない。

「……」

──やるしかない

僕は覚悟を決める。

「やっぱり…もう少し頑張ってみます」

「おう、そうか」

そう言って、顧問室を退室する。

大丈夫。あの憧れた主人公だって何度も無茶をして、その度に乗り越えていた。

だから──僕は腕を酷使する覚悟を決めた。

──

朝、目が覚めた時、僕は驚いた。

寝る時の腕の位置と、朝起きた時の腕の位置が全く変わっていなかったのだ。

おそらく、身体は無意識に動かすことができるが、腕は意識しないと、最早動かすことができないからだろう。

そこまで思い至った時、僕は不安に襲われた。腕は本当に大丈夫だろうかと──

僕はかぶりをふる。

覚悟を決めたのだ。

こんな状態でも、この合宿はやり切ると。

それから僕は朝食を済ませ、雑用をする。

この時、腕を動かすには相当の意志が必要になっていた。

道着袴に着替え、なるべく左腕に負担がかからないようにして、防具を道場に持って行く。

竹刀を持ち、体操の位置に着く。

──大丈夫だ、きっとやり通すことができる

僕は再度自分を鼓舞する。

少しして、国光部長が前に出てきた。

「体操始めます!!」

1!2!3!と体操をして身体を伸ばして行く。

体操はまだ大丈夫だ。問題は次の素振りなのだ。

「上下素振り20本、始め!」

竹刀を構え、頭上に振り上げる。

──っ!?

瞬間──激痛と呼べる痛みが走る。

苦悶の表情を浮かべながらも竹刀を振り下ろす。

2、3、4、、、と竹刀を振るう度、何度も激痛が走る。

い、意識が飛びそうだ──

それほどの激しい痛みだった。

昨日の比ではない。

まだ準備運動の素振りだ。これよりも激しい動きを一日中するのか……。

僕は歯を食いしばって激痛に耐える。

素振りが終わり、面を着け、基本打ちをする。

「はぁ…はぁ…はぁ…」

僕はすでに満身創痍だった。

身体中、変な汗が噴き出ている。

「バテるの早いぞ!しっかりしろ!!」

先輩から檄が飛ぶ。

「はい!!」

僕はそれに気合いで返事を返す。

そうだ。

こんなところでへばってる場合じゃない。

脳裏に、倒れても何度でも立ち上がるあの背中が過ぎる。

──僕もああいうふうになるんだ!

僕は竹刀を構え、「ヤァーーー!!」と渾身の掛け声をあげた──

──

「正面に礼!先生に礼!」

今日の午後の稽古が終わった。

なんとか今日も乗り切ることができたのだ。

左腕なのだが、今日も稽古の途中から痛みをあまり感じなくなっていた。

アドレナリンが出て痛みを感じなくなったのか、それとも酷使しすぎて感覚がおかしくなったのか、原因はわからないが今日を乗り切ることができたので良しとする。

雑用が終わり、夕飯の時間になる。

この時になってようやく痛覚が正常に戻ったのか、腕を動かすと、またあの痛みがしだした。

ぎこちない手の動きで食事を摂る。

初日に感じた緊張は、最早する余裕はなかった。

「リック先輩、手、大丈夫ですか?なんかすごい動かしづらそうですけど…」

食事に四苦八苦していると、桂くんが今度は心配そうに聞いてきた。

「あ、ああ、少し痛むかな?でも大丈夫だよ」

僕は努めて平気そうに大丈夫だと返した。

「そうですか、ならいいですけど…」

桂くんは怪訝な顔をしているが、それ以上は聞いてこなかった。

僕は、桂くんも親切なところがあるんだなと、ひどく呑気なことを考えていた。

食事が終わり、風呂の時間になる。

脱衣所で服を脱ぐと、寺田先輩が僕を見て驚いた声をあげた。

「おい、リック!!お前の腕すごいことになってるぞ!?」

へっ、という気の抜けたような声が漏れた。

見てみると、僕の左腕は青く腫れ上がっていた。その太さは、ふくらはぎと同じくらいにまでなっていた。

全然気づかなかった──

まさかこんなになっていたなんて。

昨日先生に見せた時には、全く腫れていなかったのに──

「お前、大丈夫か?」

「あ、はい。なんとか…」

「無理そうだったら、ちゃんと織田先生に言えよ」

寺田先輩が心配そうにこちらを見やる。

「あ、はい。あの…昨日言ったんですけど、筋肉痛じゃないのかって言われました」

すると寺田先輩は岩井先輩と顔を見合わせ、

「どう見ても筋肉痛じゃないよな?」と言い合っていた。

先輩達は絶対やばいだろと口々に言っているが、織田先生が許可を出さない限りは、病院にも行けないのだ。

「まぁ、ほどほどに頑張れよ」

「は、はい」

まさか先輩達からこんな優しい言葉をかけてもらえるなんて、と僕は驚いていた。

それほど見た目が危ないということなのだろう。

だが合宿はあと一日乗り切れば終わる。

僕はここまできたら最後までやり通す気でいた。

──あと一日もってくれ

僕はあと一日乗り切れさえすれば、それでいいと考えていた──

「消灯します」

午後10時。消灯の時間だ。

皆に知らせてから道場の明かりを消す。

皆、それぞれ布団へ入っていくので、僕も自分の布団の中に入る。

布団に寝転びながら天井を見上げてみる。

何も見えないな──

消灯した後の道場は暗く、天井なんてとても見えそうにない。只々、目の前は暗闇に包まれていた。

やがて誰かのイビキが聞こえてくる。

それはなかなかに大きな音で、中には寝付けない人間もいるんじゃないかと思うほどだった。

「……」

こうも騒々しいと眠れない。

僕は何度か寝返りを打つ。もちろん左腕は動かさず、だらりとまっすぐに伸ばして寝かせていた。

やがて睡魔が襲ってきて、意識が微睡んでいく。

「……!?」

またあのお経のような呪文じみた声が聞こえてくる。

意識が一気に覚醒する。

僕は右手で布団を掴み、一気にかぶる。

──早く止まってくれ

切実にそう願った。

しばらく布団にくるみながら震えていると、先輩の誰かが、「東藤うるせぇ」と呟くのが聞こえた。

──東藤先輩!?

そういえばこのお経の声は聞き覚えがある。

それに、東藤先輩はたしか大仏像を持っていた。

そういうことか──

合点がいった。

声の正体がわかると、途端に眠くなってきた。

明日も早いし、もう寝るか。

僕はゆっくりと眠りに落ちていった──

「起床〜」

森田の声が聞こえる。

朝だ──

僕はさっそく寝ぼけ眼で自分の腕を確認する。

やはり就寝前から一度も動いた形跡がない。 

僕の腕はどうなってしまってるのだろうか?そんな疑問を抱きながら左腕を観察する。

左腕は青く腫れ上がっており、布団にだらりと横たわっている。この腕だけを見ると、まるで今にも死んでしまいそうな人物の腕にも見える。

今日が最後なんだ。

頑張らないと──

今日は午前中に稽古をしてから解散する予定だ。長かった合宿もようやく終わるのだ。

布団を片付けて朝食を摂る。

初日と違い、最終日というだけで非常に清々しく感じる。

それもそのはずだった。

この稽古が終われば、やっと病院に行ける──

僕は安堵の気持ちでいっぱいだったのだ。

朝食が終わり、雑用の時間になる。

できるだけ左腕を使わないように雑巾がけをする僕に、高井が話しかけてきた。

「腕、大丈夫か?早いとこ病院行ったほうがいいぞ」

「ああ、この稽古が終わったらすぐに行くよ」

高井は「それがいい」と言いながら雑巾がけを再開した。

雑巾がけを終えると、道着袴に着替えて竹刀と防具を持ち、道場に並べる。そして竹刀だけを持って道場の中央へ行き、整列する。

やがて体操の号令が掛かった。

稽古開始だ──

──

ガタンゴトンと電車が揺れる音を聞きながら、僕は微睡みの中にいた。

今は電車の中だ。

合宿が終わり、僕は帰路についている。

今日の朝まで稽古していたとは思えないほど穏やかな時間だ。

あの後、僕は最後の気合いを入れて稽古に臨んだ。痛みはやはり途中から感じなくなり、僕はなんとかあの合宿を乗り切ることができた。

ただ、腕の方はひどく酷使してしまったので、今どんな状態なのか、病院で診てもらうのが少しだけ怖い。

──折れてないといいな

一応、動かせていたから大丈夫だとは思うが──

そんな考えが、浮かんでは消えていく。

やがて電車は最寄り駅に到着し、電車を降りる。改札口を出て、僕は家に向かって歩き始めた。

家までの道を歩きながら、改めて街を見てみる。

この僕の実家がある街はどちらかというと田舎で緑が多く、駅の近くには、なかなかに立派な神社がある。緑が多いからか、先程から蝉や蛙の鳴き声が聞こえてくる。

僕はこの雰囲気の街を気に入っていた。

そんなことを思っていると、やがてマンションにたどり着く。

僕のマンションは11階建ての分譲マンションだ。この地域では特に大きいマンションで、上階から観る景色は格別だ。

エレベーターに乗り、家のチャイムを鳴らす。

すると、母が「おかえり」と出迎えてくれた。

最初は笑顔だった母は、僕のだらりと垂れ下がった左腕を見て、顔色を変えた。

「腕、どうしたの!?」

「怪我したみたいで、動かすと痛むんだ」

「すぐに病院へ行きなさい」

母はすぐに診察代を僕に持たせて、病院へ連れていってくれた。

家から近くの病院へ着き、腕が腫れ上がっているということで、レントゲンを撮る。

しばらくすると、結果が出たらしく病室に呼ばれた。

「リックさん、どうぞ」

「はい」

返事をして病室に入る。

病室に入ると、医者がパソコンの画像を見て、なにやら難しそうな顔をしていた。

僕もつられてパソコンの画像を見る。

──っ

その画像はどう見ても骨が途中で折れていた──


あとがき

第10節 夏合宿(後編)を読んでいただき、ありがとうございました。

この話では、明らかな腕の異変があるにも関わらず、誤った判断をし続けて、最終的には最悪の結果になってしまった合宿の終わりを描きました。

腕の痛みがあるにも関わらず、合宿を続けてしまったのは、期待と責任と憧れ、その全てが僕の口を重くさせたからでした。

僕は合宿中、襲いくる激痛に負けないように頑張りましたが、おそらく頑張る方向を間違えていたのだと思います。

次は、怪我で竹刀を持てなくなった僕の話を描いていきます。

次も、読んでいただければ嬉しいです。

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