
第2節 邂逅と挨拶
そこは静寂に満ちていた。
床板はよく磨かれているのか、入り口から差し込む陽の光が反射して光っており、奥の壁には「風林火山」と書いた巻軸が掛けられている。
僕は今剣道場の前に立っていた。
――誰もいない
剣道場には誰もおらず、しんと静まり返っており、正面の壁の少し見上げた位置に飾られている神棚だけが、僕を迎えてくれているようだった。
ふと、入り口から見て右奥にあるドアが開き、部員らしき人物が出て来た。
――どきり、と心臓が跳ねる。
「あ、すみません、入部希望です。」
これから道場の雑巾掛けをするのか、雑巾を手に腕まくりをしている坊主頭の人物に、恐る恐るそう切り出した。
その人物は最初、呆気にとられたような顔をしていたが、やがて――
「入部希望!? ちょっと待っててな!」
そう言って目を輝かせながら、道場の左奥にある部屋へと駆けて行った。
入部希望者がそんなに珍しいのだろうか。
剣道部員であろう人物の慌てぶりを見て、僕はそんな疑問を抱いていた。
しばらくすると2名の人物が来て、そのうちの1人が僕にこう問いかけた。
「君は剣道経験者かな?」
なぜ……そんなことを聞くのだろう?
一瞬で嫌な汗が吹き出す。
やはり経験者しか入れないのだろうか。
チラシには初心者歓迎と書いてあったはず。
「い、いえ、初心者です。」
僕がかろうじで問いに答えると、その2名の人物は明らかに落胆した様子だった。
──ずきり
胸が痛む。
やはり初心者はあまり歓迎されていないようだ。
すぐにでも、その場から逃げ出したい衝動に駆られながらも僕は問いかけた。
「あの、初心者は入部できませんか?」
すると、眉毛が太くて体格の良い方の人物が、「そんなことはないよ。もちろん初心者も歓迎してる」と言いながら、先ほどの雑巾を持っていた人物が入っていった部屋に案内してくれた。
2人の後を歩きながら、僕はなんとか入部できそうだと、ほっと息をついていた──
──その部屋に入って最初に思ったのは「汗臭い」だった。
壁には竹刀や防具が立て掛けられており、床には道着や袴が置かれていた。
少し奥には、小さな物干しに綿タオルが干されている。
部室には4名ほどの人物がいたのだが、皆坊主頭で正直、誰が誰だか見分けがつかなかった。
と、部屋に入ってきた僕に気づいたのか、皆の視線が一斉に僕の方に向けられた。
一瞬、心臓が高鳴るが、僕は勇気を振り絞って自己紹介をした。
「入部希望のリックです。剣道は初心者ですが、よろしくお願いします」
「おお、初心者か!よろしく。俺は加原。俺も初心者で入ったから、分からんことがあったら何でも聞いてな。」
先程の雑巾を持っていた先輩だ。
加原先輩というらしい。
どうやら彼も初心者だったようだ。
よかった、他にも初心者で入部した人がいたんだ。
僕は彼の存在に少し安心していた。
すると、僕を部室に案内してくれた体格の良い先輩が話しかけてきた。
「俺は寺田っていうんだ。よろしく頼むよ」
彼、寺田先輩はその体格の良さとは裏腹に少し気弱で穏やかな印象だった。
「これから部長が来るから、それまでここで待っていよう」
──部長
どんな人物なんだろうか?
部長というからには厳しい人なんだろう。
少し弛みかけた緊張の糸が、また張り詰め始める。
しばらくすると、
「おっつ〜、おっ入部希望者か?」
軽く、おどけた様子で部室に入ってきた人物がいた。
「「おはようございます」」
その人物を見た瞬間、他の先輩達が一斉に挨拶をし始めた。
……やっぱり厳しいところなんだな
僕はその声の張りと統制された挨拶を聞いて、少し気圧されてしまった。
少し遅れてから、僕も「こんにちは」と挨拶をする。
「お、こんにちは。俺は部長の国光だ。よろしく。それと、ここでは最初に先輩に会ったら昼でも夜でも、まず「おはよう」で挨拶するんだ。」
なるほど。だから他の先輩達は「おはようございます」と言っていたのか…
「はい。おはようございます。」
「素直でいいな。名前はなんて言うんだ?」
「リ、リックです。剣道はやったことはありませんけど、入部したくて来ました。」
少し吃ってしまったが、なんとか軽く自己紹介をすることができた。
それを見た国光部長は、僕がどういう人物かある程度察したのか、とても面倒見の良さそうな声色で、僕を歓迎する旨を伝えてくれた。
「これから厳しい稽古が始まるけど、頑張れ、リック。厳しいといっても、ずっと厳しくするわけじゃない。今みたいに力を抜く時は抜いて、やる時はやる。メリハリをつけるのが大事だからな。」
──すごい
僕は部長のその言葉を聞いて、やっぱり高校3年生は大人だなと、尊敬の念を抱いていた。
「もうすぐ顧問の先生とコーチが来て稽古が始まるから、挨拶をしてくるんだ。寺田が一緒に行ってやれ。」
寺田先輩が「はい!」と返事をして、もう1人の先輩と一緒に僕の方へ歩いてくる。
「それじゃ緒田先生が来るまで、どこに何があるのかを教えるから着いてきてよ。
あ、こっちの奴は俺の同期で中村っていうんだ。」
そう言って、寺田先輩は先程一緒にいたもう1人の方を僕に紹介してきた。
「リックです。よろしくお願いします。」
「ああ、中村です。よろしく。」
──その中村先輩の印象は、「真面目で厳しそう」だった。
身長は寺田先輩より低く、160cm前半ほどで小柄だが、筋肉質な身体なのが見て分かるほど鍛えられていた。
そして、なにより目つきが鋭かったのだ。
僕は少し緊張しながらも、歩き出す2人の後をついて行くのだった──
「ここが、シャワー室だよ。ここに洗濯機や冷蔵庫もあるから、稽古中の飲み物はここの冷蔵庫に入れておくんだ。
それと、稽古終わりの先生や先輩達の道着や袴、綿タオルもここで洗濯する。詳しいことはまたその時に教えるよ。」
ここは部室から出て正面にある部屋だった。
どうやらここで先輩達の道着袴を1年生が洗濯するらしい。
このような先輩後輩の厳しい上下関係を経験するのは初めてだった。
僕は”やってやるぞ”と改めて気を引き締め直し、
「はい!」
とはっきりと返事を返すのだった。
「次は3階に案内するよ。そこに洗濯した道着と袴を干すんだ。」
そう言うと、寺田先輩と中村先輩は3階に案内してくれた。
道場から出て廊下を歩き、螺旋階段を登ると、上から道場を見渡せる細い通路に出た。
どうやら、その通路の手摺りに袴を掛けて干すらしい。
「そういえば、リックは竹刀は握ったことはあるのか?」
おもむろに寺田先輩が聞いてくる。
「は、はい。一応、、あります。本を読んで、自分なりに練習してました…」
実は、剣道部に入ると決めた時から、初心者用の本を購入し、父が昔授業で使っていたという竹刀を借りて素振りの練習をしていたのだ。
だが、独学なため自信は全くなく、返事は歯切れの悪いものになってしまった。
「へぇ、偉いな。」
中村先輩が感心したように呟く。
と、下の階からドタドタと複数の足音が聞こえてきた。
「「おはようございます!!」」
次に、すごい声量での挨拶が聞こえてきて、何事かと思い、僕は下を覗き込んだ。
見れば、下の道場には男子だけでなく、女子も集まっていて、皆道場の入り口近くの部屋の前でお辞儀をしていた。
挨拶が終わると、皆それぞれの元いた場所に戻っていった。
「織田先生と鳥田コーチが来たみたいだ。挨拶しに行こう。」
どうやら先生達が来たみたいだ。
今から挨拶をしに行くらしい。
階段を降りる途中、寺田先輩が真剣な顔で、
「いいか、一緒に織田先生の部屋に入るけど、入ったら正座して、しっかりと自己紹介するんだ。失礼のないように」
と、僕に忠告してきた。
僕はそれを聞いて、一瞬で冷や汗が出てくるのを感じた。
そんなに気難しい人なんだろうか──
僕は立ち竦みそうになる足を動かして、その部屋の前まで歩いて行く。
「よし、じゃあ俺が先に入るから、リックは俺の後に続いて入ってきてくれ。中村は部室に戻ってていいよ。」
「わかった。頑張れよ、リック」
中村先輩はそう言って部室に戻っていった。
「さ、準備はいいか?」
「は、はい。」
──大丈夫、心を落ち着けよう。深呼吸だ。
そう心の中で呟いて、小さく深呼吸をした。
コン、コン、コン、
寺田先輩が扉をノックする。
「寺田です。入部希望者の紹介をしたく、参りました。」
そう言って静かに部屋に入っていった。
そして僕もその後に続いて入り、寺田先輩が正座をしていたので、僕もそれに倣って正座をした。
視界の端には、コーチらしき人物も立っているのが見えた。
そして、その人物を視界に収める。
──その人物は、一言で言うと”威圧感”が凄かった。
何もしていないし、言っていない。
けれど、ただそこにいるだけで圧倒されるような存在感だった。
僕はあっという間に気圧されてしまい、寺田先輩の後ろで、大人しくしていることしかできなかった。
「こちらのリックが、自分たちの部活に入部したいとのことなので、織田先生に挨拶をしに参りました。」
「リ、リックです。しょ、初心者ですが、よろしくお願いします。」
僕はかろうじて声を絞り出して自己紹介をした。
すると、その人物はこちらを一瞥して、
「初心者? まあ、がんばれや。」
静かにそう言ったあと、もう用はないという感じにこちらに背を向けた。
「はい!ありがとうございます!
失礼しました!」
寺田先輩はそう言い、部屋から出て行く。
僕もその後に続いて部屋を出てから、やっと一息つくことができた。
──すごい圧迫感だった。何者なんだろう。
僕がそんなことを考えていると、また扉が開き、先程部屋にいた鳥田コーチと呼ばれていた女性が出てきた。
「初めまして。リックって呼ばせてもらうね。私はこの部活のコーチをやってる鳥田です。よろしくね」
「よろしくお願いします。リックです。」
鳥田コーチは20代半ばくらいの髪を後ろで団子に束ねている女性だった。
この人も剣道が強いんだろうか──
僕はコーチと喋りながら、そんなことを考えていた。
「今日はまずは見学ということで稽古を見てもらって、明日から2週間は仮入部ってことにさせてもらうけど、いい?」
「はい、大丈夫です。」
鳥田コーチは満足そうに頷きながら、
「じゃあ寺田、見学用のパイプ椅子を持ってきてあげて。」
と、寺田先輩に指示を出していた。
寺田先輩はそれに「はい」と返事をして、シャワー室の方へ走って行き、すぐにパイプ椅子を持って戻ってきた。
「じゃあリック、今日はこれに座って見学をしようか。私も一緒にいるから、分からないことがあったらなんでも質問してね。」
「はい。ありがとうございます。」
どうやらコーチも一緒にいてくれるらしい。
正直、助かった。
1人で見学するのは、やはり気まずいと思ったからだ。
「リックはどうして剣道を始めようと思ったの?」
鳥田コーチが僕に質問を投げかけてきた。
「は、はい。剣道がかっこいいなと思ったからです。ずっと高校になったらやってみたいと思っていました。」
まさかゲームの主人公に憧れて、なんて本当のことを言えるはずもなく、当たり障りのないことを早口になりながらも、なんとか答える。
「へぇ、それでここに飛び込んできたわけか。」
どうやら納得してくれたのか、それ以上は聞いてこなかった。
ほっと胸を撫で下ろす。
これ以上聞かれていたら、どう話せばいいのか分からなかったから、きっとしどろもどろになっていたことだろう。
そんなやりとりをしていると、部員達が稽古の準備ができたのか、道着姿で防具や竹刀を手に持ち、道場に集まってきた。
女子の方が人数が多いな。
それに、ベリーショートというのだろうか。
女子はみんな、髪が耳にかからない長さに切っていた。
「その子が入部希望者?はじめまして。」
何人かの女子部員がこっちにやってきて、話しかけてきた。
僕は緊張してしまい、落ち着かない様子でなんとか自己紹介をした。
──油断した。
女子が複数人で話しかけてくるとは思わなかったため、しどろもどろになってしまった。
しかし、それを見た女子部員達は嘲笑するでも、怒るでもなく、微笑ましそうに笑いながら、「緊張しなくても大丈夫だよ」と言ってくれた。
「は、はい。ありがとうございます…」
僕はいたたまれなくなって、視線を彷徨わせながらお礼を口にした。
「さ、もうそろそろ稽古が始まるよ。準備して」
鳥田コーチが指示を出すと、部員達は等間隔に並んで立ち始めた。
──ごくり。
“いよいよ本物の剣道を観ることができる”
僕は固唾を呑んで部員達の方を見ていた──


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