たどり着いた先の景色――映画『国宝』を観て

日常と心
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※この記事には映画『国宝』の重要な展開に関するネタバレを含みます。未視聴の方はご注意ください。


最近、妻に勧められて『国宝』という映画を観てきた。

映画『国宝』とは、吉田修一さんの小説を原作とした作品で、歌舞伎の世界を舞台に、主演の吉沢亮さんが演じる(喜久雄)が、”才能”と“業”を背負いながら、己の芸を極めるために、あらゆるものを失いながら人生を歩んでいく話だ。

僕は歌舞伎のことはよく知らないし、もちろん舞踊の良し悪しの違いなんか分からない、まったくの素人だ。

それでもこの映画を観終えた後――

――すごいものを観てしまったと、

鳥肌が立ち、心臓の高鳴りがなかなか収まらなかった。

まるで1人の人生を、3時間に凝縮して目撃したような、そんな感覚だった。

その3時間の中には、彼の人生――

(覚悟と責任)(友情と嫉妬)(悲しみと絶望)(強さと弱さ)(美と狂気)

あらゆる出来事と感情が詰め込まれていた。

喜久雄という存在

喜久雄はもともと、歌舞伎の世界とは無縁の場所で生きていた。

しかし、運命に導かれるように、上方歌舞伎の名門[花井家]の当主・花井半次郎に引き取られ、歌舞伎の世界に足を踏み入れる。

そこには、半次郎の実の息子であり、正当な後継者の俊介がいた。

血筋や環境も異なる2人は、互いに才能を認め合い、互いに切磋琢磨し合いながら青春を過ごしてゆくのだ。

しかしある日、半次郎が自らの代役に喜久雄を指名したことをきっかけに、状況は一変する。

本来であれば、その代役は息子の俊介が務めるのが筋らしいのだが、半次郎は喜久雄を指名した。

その意味するところは――

“血筋”という強力な武器があってもなお、喜久雄の方が上だと――

俊介にはそう告げられたように感じたのだと僕は思った。

結局この出来事をきっかけに、俊介は家を出て行き、喜久雄が三代目、花井半次郎を継ぐことになる。

“芸”に恋した男

(ここからは僕の解釈で書かせてもらいます)

喜久雄は三代目を継いだ後も、”芸”の才能をどんどん開花させていき、瞬く間に周囲の人々に認められていった。

この時、彼にはある芸妓との間に娘がいたのだが、この娘に、自分は悪魔と契約をしていたと言う。

“他のどんなものを犠牲にしても、世界で1番の役者になる”と。

ロマンチックな言い方をすれば、この時、もう既に彼は”芸”に恋焦がれていたのではないかと思う。

彼は作品を通して、結局誰かに恋をする、愛するということをしなかったように見える。

それは歌舞伎の“芸”というものに激しく焦がれていたからだと僕は感じた。

“美”という才能

この作品の中に、人間国宝の万菊さんという人物がでてくる。

彼は初めて会った喜久雄にこう言う。

“本当に綺麗な顔をしている。でもこの世界では邪魔になる、この世界ではその綺麗な顔に呑まれてしまうことがある”

と、こんなことを言っていたように思う。

僕は生まれついての綺麗な顔、すなわち”美”も、喜久雄の”芸”の才能の一つだったと思っている。

彼の壮絶な運命は、その”美”によって引き起こされた側面もあったようにも見えた。

最初に半次郎が、喜久雄を見て目が離せなくなったのも、彼の”美”に魅入られたからで、だから彼を引き取った。

そして、彼が歌舞伎から追放されるきっかけになった、芸妓との隠し子や、歌舞伎役者の娘との関係も、彼女たちが喜久雄の”美”に惹かれたからであり、

喜久雄が歌舞伎界に舞い戻るきっかけになった万菊さんも、結局彼の”美”に魅入られていたのだと僕は思っている。

もちろん、喜久雄の才能は”美”だけだとは思わないが、その”美”はとても大きな才能だったように思う。

“血筋”と”才能”の狭間で

だが、どれほど才能を認められても、彼には超えられない壁があった。

それが、「血筋」

半次郎が亡くなる直前、喜久雄は半次郎が自分の名前ではなく、息子の俊介の名を呼んでいるのを聞いてしまう。

この時、喜久雄は自分がどんなに”芸”を磨いても、どんなに”才能”があっても”血筋”には敵わないと思ったのだと思う。

この時に彼は、絶対的な血筋の壁を感じて、己の”芸”しか信じられなくなり、さらに焦がれていったように僕には見えた。

そして、後ろ盾がなくなった彼は味方もいなくなり、隠し子のことや、正当な後継者の俊介を陥れて、三代目になったという噂が広まってしまい、歌舞伎界にいられなくなる。

それとは裏腹に、今度は俊介が歌舞伎界に戻ってくることができたのだった。

“芸”と共にある狂気と祈り

その後の喜久雄は、絶望の中にいながらも、自身の恋焦がれている”芸”だけは続けていた。

彼が絶望の中にいながらも、夜の屋上で舞うシーンがあるのだが、彼の動作、表情、泣き笑いのような声、そのすべてが圧巻だった。

僕の解釈だが、彼は絶望のどん底に叩き落とされても、自分の”芸”をしている時だけは自分を信じられたし、安らぎを得ることができ、辛い現実から逃避することもできたのではないかと思う。

でも完全には目を逸らすことができなくて、あの狂気じみた泣き笑いのような表情なんだと僕は思った。

結局、万菊さんの言葉で喜久雄は歌舞伎界に舞い戻ることになるのだが、万菊さんがその時言っていた、

“ここは落ち着く、ここには綺麗なものがないでしょ、もうそのままでいいんだよと言われた気がする”

という言葉から、彼もかつて喜久雄と同じように、”芸”に恋焦がれ続けて追い求め、そして最期に辿り着いた景色を見ていたのではないかと僕は思っている。

友との絆

再び歌舞伎界に戻った喜久雄は、俊介と久しぶりの共演を再開するが、俊介は病気で脚を切断しなければいけなくなった。

俊介は最後に舞台に立ちたいと言う。これを聞いた喜久雄は彼と一緒に舞台に立つことを約束する。

最後の共演での2人の演技は、鬼気迫るものがあって、もう立つことも難しいはずなのに、最後まで芸をやり終えた俊介と、最後まで俊介を信じて止めなかった喜久雄の絆がよく描かれていて感動した。

この舞台を最後に俊介は亡くなってしまい、喜久雄はついに友もなくしてしまった。

辿り着いた景色

それから時が流れ、喜久雄は人間国宝になった。

彼はインタビューで──

探している景色がある

と答えていた。

彼は最後に鷺娘を披露し、それが終わった時、彼はついに求めていた景色を見ることになる。

この景色とはどういう物だったのか、僕にははっきりしたことは分からなかったが──

僕の解釈では、それまでたくさんのものを犠牲にして、“己の芸”  恋焦がれ、追い求め続けてきたものを、ようやく手に入れて掴んだ“安心”なのではないかと。そう思った。

あの万菊さんも、最期が近づいた時に”ほっとする”というようなことを言っていた。

それは長い間、追い求め続けていた”芸”の頂点を掴み取り、辿り着いた景色「安心する心」を見ていたから出た言葉なのではないかと。

最後に

長くなったが、僕はこの映画を観て、心の底から震えたのだ。

これは、ただの歌舞伎の映画ではない。

「自分は、何のために行き、何を信じ、何を貫いていくのか」

そう問われるような、魂を揺さぶる作品だった。

この記事を見て、この映画が少しでも気になったのなら、是非観てほしいと思います。

最後まで読んでくださってありがとうございました。

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