第一章 剣を捨てた日【第9節】夏合宿(前編)

歩みの記録
リック
リックをフォローする

第9節 夏合宿(前編)

「午後の部まで休憩!!」

やっと午前の部が終わった。

「各自!準備ができ次第、食堂に集合!」

「「はい!」」

昼食は食堂で摂るのか──

僕は少しの間、小さな深呼吸を繰り返す。

「すぅーはぁーすぅーはぁー」

それにしても暑い。

遠くで聞こえる蝉の鳴き声が、暑さをさらに際立たせている。

ふぅ──よし、行くか

僕はその場から立ち上がって道場を退場し、そそくさと食堂へ向かう。

なぜ昼食を食堂で摂るのか──

それは今が夏合宿だからである。

今日はその初日というわけだ。

あの、織田先生から防具を譲り受けた日から、一週間が過ぎた8月も半ばを過ぎた頃。

あの日感じた左腕の違和感は、日毎に強くなっているような気がする。

うまく言えないが、常に左前腕に薄い何かが貼り付いているような、そんな違和感。

痛みはないから大したことないだろう──

僕はこの得体の知れない感覚のことを、あまり気にしないようにしていた。

食堂に着く。

食堂内は部活で学校に来ている者しかおらず、普段よりも閑散としていた。

その中に、4人掛けのテーブルをいくつか繋げて、大人数が座れるようにした空間があった。見てみると、そこに見知った坊主頭の人物が腰掛けていたので、僕もそこに向かうことにする。

席に腰掛けると、先に来ていた寺田先輩がこちらを見て、少し眉を顰めながら言った。

「お前、座ってないで先輩達の水を入れてこいよ」

「は、はい!失礼しました!」

どうやら先輩の水を準備しないといけないらしい。

早々に怒られてしまった。

僕は席を立ち、水が入れてあるポットのところに向かう。

ポットの脇に積み上げられたコップを取り、水を入れていく。

その水を見ていると、今ここですぐにでも飲んでしまいたいという衝動に駆られる。

この暑さと先程までの稽古で喉がカラカラだ。

稽古中は水分補給することに、あまりいい顔をされないため、喉が渇いても我慢をするしかない。

──あとで聞いてみよう

僕はこの水を配り終えたら、すぐに水分補給をしてもいいか、先輩に聞いてみることにした。

「あの…国光先輩、今って水を飲んでも大丈夫ですか?」

「ん、おう、いいぞ。飲んでこいよ」

──よし!許可をもらった。

僕は早速自分の分のコップを用意しようとすると、中村先輩がこちらに来て、「お前、そういうことだけは早いよな」  と呟いて去って行った。

「………」

先輩より先に飲むのはやめておこう。

どうやら、あまり自分の意思を出すのはよく思われないらしい。

胸がずきりと痛むのを感じながら、僕は自分のコップに水を入れ、それを飲むことなく自分の席に着くのだった。

しばらくして、料理も全てテーブルの上に運び終わり、全員が着席完了したのを確認すると、国光部長は口を開いた。

「空、海、大地、すべての生命に感謝を捧げて──いただきます!」

「「「いただきます」」」

食事が始まった。

どうやら、食事前の感謝の言葉だったらしい。

僕はこれまでの人生で、このような文言を食事前に聞いたことがなかったので、正直面食らってしまった。

とりあえず早く食べよう。

僕は改めて目の前に置かれている昼食を見る。

今日のメニューは、ご飯の上にチキン南蛮が乗っていてマヨネーズが大量にかけられている、チキン南蛮丼だった。

──うっ…

普段ならば、その見るからに美味そうな見た目と、ボリュームのあるその量に歓喜するところなのだが、今は激しい稽古の直後且つ喉がカラカラに渇いている状態である。

見ただけでも気持ちが悪くなる。

これ、全部食べ切れるだろうか──

周りを見渡してみると、箸が止まっている人物はおらず、僕だけが料理に手をつけずにいた。

この後の稽古の時間は決まっている。

もしも一年生である僕が、最後まで食べ終わっていなかったら、また何を言われるかわからない。

早く食べなければ──

僕は箸を持ち、ご飯とチキン南蛮を口に放り込んでいく。

──喉が渇いた。水が飲みたい。

自分の水はすぐに飲み切ってしまった。

僕はチキン南蛮を無理矢理飲み込みながらも、目線をポットの方へやる。

水を入れに行きたい──だけど、

僕は先程言われた言葉を思い出す。

” お前、そういうことだけは早いよな “

……っ!

胸がぎゅっと痛くなる。

なんだか自分がとても卑しい人間だと言われたようで、水をおかわりするのを躊躇ってしまう。

それに、もしまた何か言われたら、という恐怖で僕の足はポットの方へ行くことができなかった。

結局、僕は水を飲むことなく、なんとか残りのチキン南蛮丼を平らげた。

しばらくして──

「「「ごちそうさまでした!」」」

食事が終わった。

食事を残さず、全て食べきることが出来てよかった。

ここでは食事を残すことなど言語道断だ。

もし食事を残すようなことがあれば、先輩や先生からの激しい叱責は免れないだろう。

皆、それぞれ剣道場へ向かっているので、僕もそれに倣って剣道場へ戻る。

剣道場へ戻ると、僕は真っ先に洗面所へ行き、先輩が誰もいないのを確認した後、部員が水分補給をするための巨大なピッチャーから、水を注ぐ。

コップいっぱいに注いだそれを一気に飲み干す。

生き返ったような心地だった。

再度水を注ぎ、飲み干す。

──よし!これでしばらくは保つ

僕はなぜだか、ほっとして部室へ戻っていった。

部室に戻ると、先輩達が織田先生のことで話しているのが聞こえてきた。

「織田先生って雰囲気あるよな。目の前にいると自然と背筋が伸びるっていうか…」

岩井先輩がしみじみと言う。

「自分は一年の時、織田先生のこと天皇陛下みたいなもんやと思うとりました」

「なんだそりゃ」と、はははと岩井先輩が笑う。

今喋っているのは東藤先輩だ。

この先輩とはそんなに喋ったことはないが、以前話した時は、先輩、後輩という関係を感じさせない雰囲気があり、どこか変わった先輩だった。

──と、森田が話しかけてきた

「リック、今日暑いから稽古前に水分補給ちゃんとしとけよ」

「うん、ありがとう」

森田は汗を拭いながら「これはダメだ」と言い、洗面室の方へと向かった。

今、僕の心配をしてくれたように、森田は短気なところがあるが、いい奴なのだ。

僕は少しだけ気分が晴れるのを感じていた──

──

「午後の稽古は、試合稽古をします」

午後の部になり、鳥田コーチがこれからの稽古の内容を告げる。

試合稽古ってことは、試合をするってことなのか?

僕は剣道の試合をまだやったことがない。

ということは、これが僕の初試合になるのだろう。

身体がみるみる強張っていくのがわかる。

気がつけば拳を力いっぱい握っていた。

「誰と誰が対戦するかはこっちで決めるから、名前呼ばれたら前に出てきて。まずは国光と岩井」

二人が前に出る。

お互い向かい合って礼をして、前に三歩出る。三歩目で竹刀を抜き、蹲踞をする。

ゆっくりと立ち上がり──

始めっ!!

「「ヤァーーー!!」」

始まった。

二人は一足一刀の間合いで、互いの隙を探り合っている。

やがて、国光先輩が先に仕掛けた。

「メェーーン!!」

面を打つ国光先輩に対し、岩井先輩は頭を横にずらして避ける。

そのまま鍔迫り合いになり、互いの探り合いが始まった。

しばらくして、二人は間合いを離す。

物音一つない静寂の中、今度は同時に動いた。

「「イヤァーー!!」」

面を打つ岩井先輩と小手を打つ国光先輩。

──ど、どっちなんだ?

早すぎてどちらが先に当たったのか分からなかった。

僕は鳥田コーチの方を見る。

鳥田コーチは国光部長の方の旗を上げていた。

どうやら国光先輩の小手が先に岩井先輩を捉えていたらしい。

再び二人は向かい合い、蹲踞をする。

後ろに下がっていき、礼をして二人の試合は終了した。

それにしても、勝負が決まるのは一瞬の出来事だった。

僕はどちらが先に相手を捉えていたのか、早すぎて全く分からなかったのだ。

これが試合か──

僕は、つーと一筋の冷たい汗が流れていくのを感じた。

その後も先輩達の対戦が続き、いよいよ僕の番になった。

「次はリックと木村!」

鳥田コーチが僕と対戦相手の名前を呼ぶ。

木村さん。

彼女はこの高校の付属の中学生の女子だ。

中学生も、たまに高校生に混じってこうして稽古をしている。

僕は緊張でばくばくとうるさい鼓動を感じながら礼をし、三歩前に出て竹刀を構えながら蹲踞をする。

──いよいよだ

心の中で深く深呼吸をする。

立ち上がり、

始めっ!

号令が掛かった。

僕は「ヤァーー!」を上げながら相手を見る。

相手も掛け声を上げ、こちらの様子を窺っている。

よし!行くぞ!

僕は思い切って間合いを詰め、面を打つ。

「メェーーン!」

その面はしかし相手に簡単に受け止められてしまった。

そのまま鍔迫り合いにもっていく。

実は僕は、鍔迫り合いの正しいやり方も、駆け引きも何も教わっていないため、先輩の真似をしているだけだった。

──と相手が動いた。

「ドウーー!!」

僕のがら空きの胴に引き胴を叩き込んでんできた。

慌ててコーチを見ると旗は上がっていなかった。どうやら有効打突にはならなかったらしい。

よかった──

僕はほっと息をつくが、まだまだ試合は続いている。集中しないと。

相手を見る。

初めての試合稽古だ。

待っていたら、こちらが不利になる。

僕は再度「ヤーー!」と掛け声を上げながら面を打つ。

その瞬間──

小手に小さい衝撃が走った。

──っ!?

僕は驚いてコーチの方を見る。

旗は、相手の方に上がっていた。

どうやら僕は負けてしまったようだ。

再度、相手と向き合い蹲踞をする。後ろに下がり、礼をして皆のもとへ戻る。

負けてしまった。

当然といえば当然なのだが、やはり悔しい。

何がなんだか分からないまま終わってしまったのだ。

「それじゃ、これで試合稽古は終わるけど、各人今日の自分の試合を振り返って部活ノートに書いておくように」

部活ノート──

このノートは日々の稽古の発見や反省を書くためのノートだ。これは毎日書いて、毎日提出しなければならない。

僕は部活ノートになんで書こうか悩んだ。

気づいたら負けてました、なんて書いたら間違いなく織田先生に怒られてしまうだろう。

「掛かり稽古!!」

ノートに何を書くのかを悩んでいると、掛かり稽古の号令が掛かった。

僕は一つ小さく深呼吸をしてから、

よし──やるぞ!

先輩達相手に掛かっていくのだった──

──

「空、海、大地、すべての生命に感謝を捧げて──いただきます!」

「「「いただきます」」」

食事前の感謝の言葉が終わり、夕食が始まる。

昼とは違い、この後に稽古を控えていないので、比較的ゆったりと食事を摂ることができる。だからなのか、僕は昼には気にならなかった周りの視線が気になってしまっていた。

「おいリック、なんだその箸の持ち方。ちゃんと持てよ」

寺田先輩から箸の持ち方について指摘された。

「クロス箸はほんとに恥ずかしいぞ」

加原先輩も僕の箸の持ち方を不快に思ったらしく、少し顔を顰めていた。

「失礼しました!よければ正しい持ち方を教えて頂きたいです」

僕は加原先輩に正しい箸の持ち方を教えてもらうことにした。

「ああ、いいぞ」

加原先輩は快く引き受けてくれた。

加原先輩は僕に正しい持ち方を教えながら、「それは違う」、「これもちょっと違う」と僕の箸の持ち方を修正していく。

やがて、僕の持ちかたが幾分ましになった頃、加原先輩は「今日はこのくらいでいいだろう」と僕の不器用さに若干げんなりしている様子だった。

恥ずかしいし、申し訳ないな。

僕は自分の物覚えの悪さと不器用さが恥ずかしかったと同時に、ひどく申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

続けて食事をしていくが、前の人物と向かい合わせで食べるため、やはり視線が気になって食べづらい。

思えば、今まで僕は、誰かと向かい合わせになって食事をすることがなかった。

箸を持つ手が震える。

先程注意されたからか、どうやら僕の身体は緊張で強張っているらしい。

前の席は付属の中学生の桂という男子だ。

彼は、はっきりと物を言う人物だ。

僕は彼が少し苦手だった。

魚を食べようとして、箸を身に入れる。

だが、予想に反して、魚の身は固く、震える僕の箸捌きでは、身を切り分けることができない。

普段であればこういう時、無理やり身をちぎるか、そのまま魚を口に持っていったりするのだが、この場所ではそういった行為は咎められてしまう。

僕はなんとか綺麗に切り分けようと思い、震える箸で、魚と格闘をしていた。

それを見た桂くんは変なものを見たと言う声で言った。

「魚を食べれない人初めて見た」

そう言って笑っていた。

周りも、驚いた様子でこちらを見ているのが分かる。

僕は顔から火が出そうになるほど、羞恥を感じていた。その後のことは、あまり記憶になく、ただ僕は俯いて黙々と食事をしていた。

食事が終わり、入浴も済ませた後、道場に行って軽い確認稽古を行った。

稽古と言っても、構えや、素振りの確認に身体捌きの確認などを静かに行っただけだ。

それも終わり、就寝の時間になって、東藤先輩がなにやら懐から取り出して、皆にそれを見せてきた。

「これ、自分の御守りなんです。イカしとるでしょ」

「これ大仏じゃねーか。こんなんがあるんだ」

岩井先輩が驚いたように感想を述べる。

それは、小さな黄金色の大仏像だった。

──やっぱり東藤先輩は変わってて面白いな

この部活内でも常識や普通といった物とは無縁な東藤先輩の存在に僕は少しだけ癒されていた──

ふと、目が覚めた。

今は深夜だ。

剣道場に布団を敷いて、皆で川の字になって寝ている。

なぜ目が覚めたのか?

聞こえてくるのだ。

お経のようなものが──

隣の柔道場の方から聞こえてくる。

確か柔道部員は合宿ではなかったはずなので、誰もいないはずだ。

僕は背筋が寒くなるのを感じた。

自慢ではないが、僕は怪談の類が大の苦手だ。そういった系統の番組を見た夜は、布団にくるまって寝ているほどだ。

そういえばこの学校は歴史が古く、戦時中に建てられていたはずだ。

自分の顔が青ざめていくのがわかる。

僕はすぐに布団にくるまり、固く目を閉じる。

──早く眠りたい

切実にそう願った──

──

道場に光が差し込んでくる。

もう朝だ。

昨日はあの後、僕はなんとか眠ることができたのだが、あれは一体なんだったのだろうか。もしあの不気味なお経のようなものが、合宿中、毎晩続くのだとしたら、僕はノイローゼになってしまうかもしれない。

その後、僕は朝食を摂り、朝の雑用をこなして稽古の準備をする。

「今日も昨日と同じ、試合稽古をするから、皆準備して」

鳥田コーチが今日も試合稽古をする旨を告げる。

試合稽古か。

昨日はあっけなく負けてしまったので、今日はもう少し粘りたい。

皆竹刀を持ち、準備運動をする。

僕も軽い素振りをする。

……っ

左腕に違和感。

実は昨日の稽古でさらに違和感が強くなってしまった。

剣道の試合は激しくぶつかり合うため、その際に、腕を強くぶつけたのかもしれない。

さすがに言った方がいいだろうか──

いや、痛みもなにもない。ただ変な感じがするというだけで、あの織田先生に報告するなんて考えられない。

このまま続けよう。

このくらい大丈夫だ、と僕は一抹の不安を振り払うように素振りを続けた。

「それじゃ、リックと山田。前に出てきて」

今日は山田と試合か。

格上の山田相手にどれだけ粘れるか──

やってやるぞ!

僕は緊張で震える手をぎゅっと握る。

途端、違和感が襲ってくるが、それを無視する。

互いに蹲踞をし、立ち上がる。

始めっ!

「ヤァーー!」

今日は様子見なしで、いきなり面を打ちにいく。

どんっと衝撃が走る。

どうやら相手も同じことを考えていたらしく、同時に面が入った。

その際に左腕が山田の面金という金属部分にぶつかる。

……っ!!

瞬間──猛烈な痛みが走った。

が、僕はなんとか意識を目の前の相手に集中させる。

そのまま鍔迫り合いに持ち込み、間合いを離す。

僕は冷や汗をかきながらも、相手に飛び掛かる。

「メェーーン!」

しかしその面は力が入っておらず、同じく面を打ってきた山田に打たれてしまった。

負けてしまった──

試合が終わった後、何度目かの先輩の試合を見て、午前の部が終了した。

面を外した僕は、じんじんと痛む左腕を気にしながら面を持ち上げた──その瞬間

ガタンっ!

急に左腕に力が入らなくなり、面を落としてしまった。

……っ!!?

嘘、だろ…

だらりと垂れ下がった左腕は、ぴくりとも動かなかった──


あとがき

第9節 夏合宿(前編)を読んでいただき、ありがとうございます。

この話は夏合宿での話を描きました。

合宿では、稽古はもちろん辛かったのですが、僕はそれよりも食事中の方が辛く、常に緊張していた記憶があります。

剣道部の先輩や同期はマナーに厳しく、茶碗の持ち方や箸使い、咀嚼音やスープを飲む音など、少しの乱れも許されませんでした。

その経験は、今となっては貴重な経験なのですが、個人的にはもっと他の人に寛容になりたいと思いました。

次の話は、僕の左腕がどうなってしまったのか、僕はどういう行動をとるのかについてを描いていきますので是非読んで下さい。

コメント