第一章 剣を捨てた日【第6節】修練

歩みの記録
リック
リックをフォローする

第6節 修練

「午前の授業はここまで!日直!」

「………」

「先生、秋田の奴寝てるよ」

「またか!?おい!秋田起きろ」

授業中、ずっと寝ていた日直の秋田君を小見山先輩が起こす。

起こされた秋田君は不機嫌そうに「起立、気をつけ、礼」と授業の終わりを告げる号令を掛けた。

なんてことのない、いつもの光景だ。

「おい秋田!後で職員室に来い!」

「え、なんで俺だけ…」

どうやら秋田君は職員室に呼ばれたようだ。

彼の言っていることも分かる。

このクラスはまともに授業を受ける人間の方が少ない。

そして僕はその数少ない人間の内の1人だ。

だが授業を受けている時でも、僕の意識は常に別のところにあった。

そう──剣道部のことである。

僕は弁当箱を開けながら窓の外を見る。

空は分厚い雲に覆われており、雨がざあざあと降っている。薄暗く陰鬱な景色は、それだけでこちらの心を暗くさせていくようだ。

今は6月、梅雨の時期だ。

僕が初めてあの道場に足を踏み入れてから、まだ2ヶ月と少ししか経っていない。

それなのに、もうずいぶん長い間あの部活にいるような、そんな気がするのだ。

ここまでで休日など1日もなかった。

休日がないというものは、これほど堪えることなのだと僕は改めて感じていた。

常に身体のどこかしらが痛みを訴えている。

特に手のひらと足の裏はひどい状態だ。

毎日酷使しているためか、柔らかかった僕の手と足の皮は瞬く間に破れた。

テーピングを巻いて傷の処置はしているが、回復が間に合わず、新しい皮ができる前にまた破れる。この繰り返しだ。

おかげで足の裏は歩く度に痛み、竹刀を握れば手のひらが痛む。

だがこれらの痛みは、身体がより強くなっていくための通過儀礼みたいなものだ。

それに、このくらいのことは入部した時に覚悟していた。

それよりも予想外だったのは、一番辛いのが稽古ではなく、”それ以外の時間だった”ということだ。 

たしかに稽古の時間は厳しく辛い。

しかし、それ以外の雑用をやっている時や、普通に部室で過ごしている時の方が、僕にとっては遥かに辛かった。

僕達1年生は、何をするにも先輩より先に気づいて早く動かなければならない。

もし先に先輩を動かしてしまったら厳しい叱責が待っている。

そして、先輩が見ている、見ていないに関わらず、移動は走らなければならない。

眉毛は剃ってはならない。

食事中も喋ってはならない。

座る時は正座など、他にも決まりごとが沢山あるのだ。

これを破れば、もれなく先輩の激しい叱責と非常識という言葉がセットになって付いてくる。なので先輩の動向や、自分の振る舞いには常に気を張って注意しなければならない。

その環境が毎日続くのだ。

おかげで今では授業中でも身体は緊張し、臨戦態勢をとっている。

食べ終わった弁当箱を鞄にしまい、時計を見上げる。

──あと3時間

あと3時間で部活が始まる。

その時間で心の準備を整えておく。そうしないと心が折れてしまいそうになるからだ。

とりあえず午後の授業までは寝ておこう。

僕は机に突っ伏し、目を閉じた──

「じゃあ、これで終礼は終わる!もう帰っていいぞ」

小見山先生が終礼の終わりを告げると、皆各々帰り支度を始める。

僕は終礼が終わった瞬間、気を最大限まで張り詰め、教室を出てすぐに走り始める。

向かう先は剣道場だ。

校舎から剣道場へ向かう時にも走らなければならない。

「はぁっ、はぁっ、」

少し息が上がる。

「…!」

前方に寺田先輩と中村先輩がいる。

僕は声を張り上げて挨拶をする。

「おはようございます!おはようございます!」

2人はこちらを見て頷いたあと、また談笑を再開した。

僕はそのまま走って赤い外壁の建物へ入り、螺旋階段を駆け上がって、剣道場へ到着する。

部室へ着いたらすぐに、3階に干してある道着の確認をする。朝見た時に、まだ乾いていなかった道着を取り込むためだ。

全部乾いていたので、部室に持って行き各先輩の定位置に丁寧に置いておく。

そのあと、雑巾がけの準備をして、道場を磨く。朝に一度磨いているが、稽古前にも磨かなければいけないのだ。

その時に道場のテープが剥がれていないか、危険な物が落ちていないかの最終チェックをする。

織田先生の防具の準備もあるが、それは森田がやってくれているようだ。

雑巾掛けをしている途中、山田と高井がやって来たので、手分けして一緒に雑巾掛けをする。

雑巾掛けをしていると、先輩達がやって来た。寺田先輩と中村先輩だ。

先輩達はなにやら怒っている様子だ。

「おい山田。お前今日の朝歩いて登校してたよな。俺たちと目が合った瞬間に走り出したよな」

中村先輩が低い声で山田に詰め寄る。

「お前、そういうのやめろって」

寺田先輩も眉を顰めながら山田を非難する。

どうやら、先輩の見ていないところで歩いていたのが見つかったらしい。

先輩達はそういったことが嫌いなのだ。山田はこれからどうなるのだろうか?

僕は緊張した面持ちで、事の成り行きを眺めていた。

「は…はい。失礼しました…」

山田はおたおたして謝罪を口にした。

「失礼しましたじゃねえんだよ!お前、そういうとこが普段の稽古にも出てんだよ!!」

中村先輩が山田の肩を強く押す。

山田は後ろの壁にぶつかって一瞬表情が歪むが、すぐに謝罪の言葉を口にする。

「し…失礼しました!」

中村先輩はしばらく山田を睨みつけていたが、やがて──

「次はないからな」

と言って寺田先輩と一緒に部室に入って行った。

「おい山田!お前何やってんだよ!」

今度は今の騒ぎを聞いていたらしい森田が山田に詰め寄る。

「リック、早く雑巾掛けを終わらせよう。もうすぐ稽古が始まる」

「あ、そうだね。早く終わらせないと」

作業の手が止まっていた僕に高井が声をかけてきた。

そうだ。もうすぐ稽古が始まる。急いで雑巾掛けを終わらせて道着に着替えないと。

今度は森田に叱責されている山田を意識から外し、雑巾掛けに集中することにした──

──道着に着替え終えた僕は竹刀を持ち、体操が始まるまで道場で待機する。

僕が着ている道着は、部室にあった誰も使っていない物を使わせてもらっている。

少し丈が短いが、道着を着ることを許されたことが、一歩ずつ前進している気がして嬉しかった。

──テーピングはばっちりだな。

自分の手のひらと足の裏に巻いてるテーピングを確認する。

半端な巻き方ではすぐに外れてしまうからだ。

自分の竹刀の柄を見る。

柄は僕の血の跡で黒ずんでいた。

いつになったら血が出なくなるのだろう。

どれだけデーピングを巻いていても、稽古の途中で血が滲んできてしまう。

それは足の裏も同様だ。

滲んだ血は道場の床にも付着してしまうため、先輩に怒られてしまうのだ。

その度に雑巾で綺麗にしなければいけない。

今日は血が滲みませんように──

僕はそんなことを心の中で祈りながら、体操を開始する──

「跳躍素振り20本、始め!」

「「1!2!3!」」

” 無理なく付いていけている “

僕は跳躍素振りをしながらも、自身の成長の喜びを噛みしめていた。

「足捌きの隊形!」

僕は号令が掛かった瞬間、素早く移動を開始して、竹刀を構えて横一列に並ぶ。

そして静かに摺り足をし始める。

できるだけ上体や構えた竹刀を揺らさぬように、最小限の動きを意識する。

まだ皆のようにはいかないが、1人だけ遅れるといったことはなくなっている。

それにしても──

ここまでで私語は一切ない。

体操が始まった瞬間から常に空気が緊張している。この空気の中、何か変なことをしてしまったらと思うとぞっとする。

「着座!」

やがてその号令が掛かると、皆各々の防具の前に正座する。

僕はまだ防具を着けることができないので、一番端の何もないところに正座する。

「黙想〜!」

目を瞑る。

この後の稽古のことが頭の中を支配する。

” 嫌だ ” 

” 早く帰りたい “

そんな気持ちが湧き上がってくる。

それらの感情をなんとか打ち消してはまた浮かんでくる。最近の黙想の時間は、その繰り返しだった。

「やめ〜!面着け!」

皆、面を着け始める。その間に僕は竹刀を持って、道場の端に移動する。

──よし。今日もやるぞ!

僕は気合を入れ直した。

平日の稽古時間は約3時間だ。

僕は大まかに前半の1時間半と、後半の1時間半で稽古内容を変えている。

まずは足捌きだ。

摺り足からの踏み込みの練習をする。

タンっ! タンっ!

──よし!

前まで僕が踏み込みをすると、高い確率で鈍い音が響いていたのだが、今では “タンッ! ” という足の裏全体で床を捉えた心地いい音が響いている。

これは嬉しかった。

あんなに難しく、本当に出来るようになるのかと懐疑的だった踏み込みができるようになったのだ。

だが、喜んでいられる時間はそれほど長くなかった。

踏み込みの感覚を掴んだら、次は連続踏み込みを習得しなければいけなかったのだ。

連続踏み込みとは、小手面の時などの連続技の際に行う踏み込みだ。僕があれだけ苦労した踏み込みを、今度は連続で素早く行わなければならない。

「……っ」

タンッ!どんっ!

──ダメだ。二回目の踏み込みが上手く出来ない。

この前、加原先輩から教えてもらった練習方法。最初は連続で素早くは難しいため、まずは一回一回ゆっくりと、けれども連続で踏み込みをする感覚を身につける。

これをやってみよう。

左足で踏み切り、右足を踏み込む。

タンッ!

続いて、そのまま左足でもう一度踏み切り、右足で踏み込む。

ドンっ!

やはり二度目は鈍い音が鳴る。

まずはゆっくりでも、連続で踏み込みをすることに慣れなければ──

僕の今後の課題である。

次は洗面所に行く。

そこには、防具を着させられた木の人形が置かれていた。

僕が面や小手などの打突部位に、打ち込む感覚を掴めるように鳥田コーチが用意してくれたのだ。

僕は一足一刀の間合いに立つ。

一足一刀とは、一歩踏み込めば相手を打つことができ、一歩引けば相手の打突を避けることができる重要な間合いである。

一歩踏み込んで人形の頭に面を打つ。

ぱんっ!と小気味良い音が鳴り響く。

一歩下がって先程と同じ一足一刀の間合いに立つ。

この動作を繰り返して、間合いの感覚や打突する瞬間の手の内を締める感覚を身につけていくのだ。

しばらくその稽古を続ける。

ふと時計を見ると、時刻は17時半だった。

──あと1時間半だ

僕は道場に戻り、竹刀を構えて静かに深呼吸をする。

「すぅーーはぁぁ〜」

跳躍素振り100本始め!

僕は心の中で呟きながら跳躍素振りを開始した。

跳躍素振りとは、前後に跳躍しながら素振りをする稽古だ。

左足で前に跳躍すると同時に竹刀を振り下ろし、右足で後ろに蹴り出すと同時に竹刀を振りかぶり、再び前に跳躍しながら振り下ろす。

これを繰り返すのだ。

「1!2!3!…」

僕は声を張り上げながら素振りをしていく。

「91!はぁっ…92!はぁっ…」

最後の方になるにつれ、息が切れてカウントするのが難しくなっていく。

「100!」

「はぁっ…はぁっ…」

──やっぱりきついな

跳躍素振りは、竹刀を振るための筋力だけでなく、足腰や体幹、心肺機能も鍛えることが出来るのだ。

そのため、他の素振りに比べ疲労が激しい。

僕も最初は20本からやっていたのだが、今では一セット100本の跳躍素振りをやっている。

約1分のインターバルを挟み、また構える。

「1!2!3!…」

「100!っ…ぜぇっ…ぜぇっ…」

二セット目が終わった。

息はもう完全に上がっていて、身体が休息を求めている。

だがまだ始まったばかりだ。

これを、皆の稽古が終わるまで続けなければならない。

とにかく、次のセットまでに息を整えよう。

「はぁっ、はぁっ…ふぅ」

よし!なんとか持ち直した。

ある程度息が整った僕は、再び竹刀を構えた──

「ぜぇっ……ぜぇっ……」

何セット目かの素振りを終えた僕は、たまらず膝に手をついた。

──肺が苦しい。腕や足も限界だ。き、きつい。

手を見る。

稽古前に確認した、テーピングからは血が滲み、竹刀の柄に新しい染みを作っていた。

それは足の裏も同様だった。

激しい動きで皮は破れて、新たに血が滲み出していた。

また掃除しないと──

息も絶え絶えの中、僕はそんなことを思っていた。

「おい、膝に手をつくなよ!前に言っただろ」

中村先輩だ。

膝を曲げて手をついている僕に気づいたのか、稽古の列から抜けてこちらに来た。

「それにさっきから見てたけど、お前休憩多いんだよ。もっと気を引き締めろ」

「は…はい! 失礼しました!」

言われてしまった──

確かに一セット目や、二セット目に比べ休憩が長くなっていた。

だが、これでも既に目一杯やっている。

これ以上休憩を短くすると、途中で倒れてしまうかもしれない。

「……っ」

気持ちが折れそうになる。

僕はぎゅっと拳を握る。

ふと──目の前の先輩達の稽古を見る。

皆、辛そうだが誰一人として妥協をしているようには見えない。

「……」

この時、僕は思った。

辛いからと言って、ここで限界を決めていたら一生あの人達には追いつけないだろう。

そして、あの憧れた姿にも。

気がつけば──

僕は痛みで反射的に離したくなる手を押さえ込み、再び竹刀を構えていた──


あとがき

明けましておめでとうございます。

第6節 修練を読んでいただきありがとうございます。

この話では、厳しい環境で心身共に疲弊していき、心が折れそうになりながらも、なんとか持ち直すことができた。そんな記憶の断片を描きました。

当時は、授業中や家にいる時間までも、部活のことを考えては憂鬱になっていました。それでも、すぐに投げ出さずに、あの激しい修練の中で立っていられたのは、僕の中に芽生え始めていた小さな信念があったからだと思います。

この “信念” がこの先どうなっていくのか──

よければ是非読んで下さい。

コメント