
第14節 疑念
「いってきます」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
母に見送られ、玄関を閉める。
家の外は相変わらず寒く、手袋やマフラーをしていても、その冷気は容赦なく襲ってくる。
僕は白い息を吐きながら、駅に向かって歩いていく。
「はぁ…嫌だな」
ため息と共に暗い心情を吐き出す。
思わず本音が漏れてしまうほど憂鬱な気分だった。
今日から合宿なのだ。
合宿には良い思い出がない。何より、数日間あの同期や先輩と一緒にいるのが、たまらなく嫌だった。
駅のホームに着くと、陽が昇る前だからか、まだ人がまばらだった。
──電車なんて来なければいいのに
切実な願いだった。
ガタンゴトン ガタンゴトン
しかし、そんな思いも虚しく電車はすぐにやってきた。
プシューと音を立て、電車のドアが開く。
僕はため息を吐きながら電車に乗り込んだ。
車内はとても暖かかった。
空いている席に座り、イヤホンを耳につけて、いつものように「Kalafina」の音楽を聴く。
このユニットが主題歌を歌っている映画の、第一章から第七章までの歌を順番に聴いていき、最後に戦闘シーンで流れるBGMを聴くのが僕のいつものルーティンだった。
音楽を聴きながら気持ちを昂らせ、意識を部活用に塗り替えていく。
残りあと二駅ほどになる頃には、意識は完全に臨戦態勢に入っていた。
こんなことをする理由は簡単だ。
こうでもしないと逃げ出してしまいそうになるからである。だからこうして気持ちを無理矢理高めて部活に臨むしかないのだ。
──よし、いつでもいけるぞ
僕はドアの前に立ち、ただ駅に到着するのを待っていた──
──
「冷た!?」
稽古の前、三階に干してある先輩達の道着を取り込もうと、道着に手を伸ばした時だった。
それはまるで乾いていなかった。
触れればたちまち、身体の芯から凍てつくような冷たさだった。
──なんだこれは?
こんなに濡れたままの道着など、この季節に着れたものではない。
おそらく気温が低すぎて一晩では乾かなかったのだろう。幸いなことに、道着によって濡れ具合が酷いものと、そうでないものがあるので、比較的乾いている道着だけを取り込むことにした。
「山田、道着濡れてるからマシなやつだけ取り込もうか」
僕は一緒に道着と袴を取り込みに来た山田にそう伝える。山田はこくりと頷くと、道着と袴を確認しながら集めだした。
僕もやるとしよう。
道着の濡れ具合を確かめながら、下に降ろすかどうかを決めていく。
先輩達は道着を二着持っているので、もし濡れていても、他に着る道着があるので安心だ。
確認作業を続けていると、僕の道着を見つける。それはしっかりと広範囲にわたって濡れていた。
「はぁ…」
僕は肩を落として、ため息を吐きながらその道着を手に取る。
冷たい──
僕は今この織田先生に貰った道着しか持っていない。最初に僕が着ていた、誰も使っていないと思われた道着は、どうやら先輩の道着だったらしく既に返してしまった。
寒いだろうなと、この道着を着ることを想像して身震いする。
着るしかないか──
僕は諦めてこの道着をおとなしく着ることにした。
そうこう考えているうちに、道着を集め終えた。
「それじゃ、下に行こうか」
僕は山田にそう告げ、部室へと向かった。
部室に着くと、道着と袴をそれぞれの先輩の場所に置いていく。
今日は取り込んだ量が少ないので、すぐに終わった。
僕は自分の道着に着替えようと、足を踏み出した瞬間──
ドサッと、何かが倒れた音が下から聞こえてきた。
僕はなんだろうと視線を下にやる。
すると、そこには盛大に粉を撒き散らしたプロテインの袋があった。
「…!?」
「お前、やらかしたな。それ、中村のプロテインだぞ」
部室にいた国光部長が言う。
しまった!?
中村先輩のプロテインを蹴ってしまった!
僕はあたふたと慌てふためいてしまった。
そこにタイミング悪く、中村先輩が部室に入ってきた。
中村先輩は盛大にぶちまれられたプロテインを見ると、「ああ!」と小さく叫び声を上げ、こちらに走ってくる。
僕は「失礼しました!」と頭を下げるが、先輩は僕を突き飛ばし、プロテインを片付け始める
再度、僕は謝罪をするが、先輩は舌打ちをしてそのまま作業を続ける。
その顔は怒りで歪んでいたが、僕の方を見ることはなかった。
僕はひどく動揺して、少し時間を空けてから謝ろうと、先に道着に着替えることにした。
すると、またもや中村先輩の悲鳴が聞こえてきた。
「なんだこれは!?」
驚いてそちらに目線を向けると、先輩の手にはびしょびしょに濡れた道着が握られていた。
──あれは!?
心臓がうるさいくらいに脈打つのが分かる。
「はぁ、はぁ、」
次第に息が荒くなっていく。
あれは先程確認してまだ取り込めないと判断した中村先輩の道着だ。
なぜ部室にある?
僕はちらりと山田に視線を向ける。
山田が取り込んだのか…
山田は気づいているのか、いないのか、こちらに顔を向けない。
とりあえず、この状況はまずい。
道着を取り込んだのは僕と山田だ。そして僕はたった今先輩のプロテインを溢してしまったばかりだ。
「はぁ、はぁ、」
先程から息が荒い。
疲れていないのにどうして──
中村先輩はこちらをキッと睨みつける。
そしてこちらに歩いてきた。
僕は恐怖を感じながらも、謝罪の言葉を口にしようとする。
「し…失礼しま……!?」
謝罪の言葉は途中で途切れた。
「ぐっ…」
何が起こったのか一瞬分からなかった。
気づけば先輩に胸倉を掴まれ、壁に叩きつけられていた。
頭がジンジンする。
僕は恐怖に声を引き攣らせながらも、謝罪の言葉を口にする。
「し、失礼しました!!」
中村先輩は無言でこちらを睨みつけている。
本当は僕はやっていない。
先輩の道着はびしょびしょだったので、干したままにしておくと判断したのだ。
だが、自分はやっていないなど言えない。
他に誰がやったのか、はっきりとしていない以上、僕の責任転嫁としか映らないだろう。
中村先輩はそういったことが一番嫌いなのだ。
鼓動がうるさいくらいに脈動している。
恐怖で頭の中が真っ白になっている。
先輩は少しの間僕を睨み続け、やがて投げ捨てるように僕を放した。
我に帰った僕は、再度謝罪するが、先輩がこちらを向くことはなかった──
──
「お前、遠征初めてだろ」
「はい。行ったことないです」
「遠征と言っても、他の道場に行って稽古して、どっかの体育館で寝るだけだけどな」
僕と加原先輩は、遠征へと行く車の中で話している。
目的地まで、もうしばらくかかりそうだ。
「でも今日の夕飯は天ぷらだ。楽しみにしとけよ」
「はい!」
そんな他愛のないことを話していると、眠気が襲ってくる。
周りを見れば、この車に乗っているほとんどの人間が、夢の世界へ旅立っていた。
僕もしばらく眠ろう。
ゆっくりと瞼を下ろしていく。
目が覚めたら家の中だったらいいのに──
そう思いながらも、意識が闇に沈んでいく。
「くぅ…」
どれくらい眠っていただろう。
「うーーーあーーーー!!」
自分の叫び声で一気に覚醒する。
僕ははっとして周りを見回す。
皆、驚いたように目を丸くしてこちらを凝視していた。
「なんだ…今の?」
加原先輩は驚いたように呟いていた。
僕は笑って誤魔化すと、また寝たふりをする。実は最近、僕は寝ている時に叫び声を上げていることがある。それも頻繁にだった。
原因は分からない。
ただ、無意識に助けを求めているのだろうか──
「もうすぐ着くよー」
僕達が乗る車を運転していた保護者の一人が声をあげる。
どうやらもうすぐ着くようだ。窓の外を見れば、車は小さな交差点の信号で止まっていた。その交差点を真っ直ぐ行ったところに、大きな体育館があるのが見える。
これからあそこで稽古をするのだ。
はぁ、嫌だな──
僕は小さくため息を吐く。
とても憂鬱だった。普段の稽古もそうだが、昨日、中村先輩に対して粗相をしてしまった僕は、未だにその存在を無視されていた。話しかけても、こちらを一瞥すらしない。
これはとても精神的にきつい。
先輩と同じ空間にいるだけで、身体が萎縮してしまっているのを感じる。
「はぁ…」
僕はもう一度ため息を吐いて、近づいてくる体育館を眺めた──
──
「正面に、礼!先生に、礼!」
稽古が終わった。
流石、遠征というだけあって他の学校からも稽古に来ていて、いつもよりも人数が多かった。
そのおかげか、そこまで先輩と関わることなく稽古を終えることができた。
「お前ら早く動けよ!これから夕飯だからな」
先輩が僕達一年生に指示を出す。
これから夕飯で和食の料理店に行くのだ。
その支度を急いでしなければいけない。
僕達はいそいそと防具を片付けて着替える。
着替え終わると、今度はタクシーに乗って和食料理店まで向かった。
「腹減ったな〜。天ぷらが出るらしいぞ、楽しみだな」
森田がタクシーの中で待ち遠しそうな声で言う。
僕はといえば、不思議なほどに食欲がなかった。
場所がどこだろうが、この部活で食べる食事は美味しく感じないのだ。なぜならば、あそこには常に嫌な緊張と沈黙が漂っているからだ。
「天ぷらか…美味しそうだな」
僕は感情が篭っていない声で相槌を打つ。
そうこうしている内に、タクシーがある店の前で止まる。
どうやら着いたらしい。
僕達がタクシーから降りると、先に来ていたらしい鳥田コーチが待ってくれていた。
「やっと来た。こっちだよ、ついてきて」
そう言うと、鳥田コーチは先に歩き出した。
どうやら僕達が最後に着いたらしい。
そのままコーチの後に続いて店の中に入り、長い廊下を歩く。しばらく歩くと、いくつかの襖があり、そのうちの一つに案内された。
中に入るとそこは座敷で、皆正座で席に着いていた。しーん、とした空気がどことなく重く感じる。
「あそこに二つ並んで空いてる席があるから森田とリックはあそこに行って」
鳥田コーチが空いている二組の座布団を指し示す。
「はい!」
僕と森田はほぼ同時に返事をして、その座布団に腰を下ろした。
それにしても──
僕はこっそりと周りを見てみる。
今日はいつもにまして空気が張り詰めている気がする。
それは、まるで稽古の時のような緊張感だった。
その時、襖がサーッと開かれた。
僕は何気なくそちらへ振り向いて驚愕した。
開かれた襖から顔を覗かせた人物は、なんと織田先生だった。
先生はゆっくりと室内を歩いていき、上座へ座る。
「それじゃ…国光、いただきますの号令掛けて」
「では…空、海、大地、すべての生命に感謝を捧げて──いただきます!
「「いただきます!」」
食事が始まった。
目の前には刺身や天ぷらなど、色とりどりの和食が並んでいる。とても美味しそうだ。
だが、食欲が湧かない。
原因は分かりきっている。この静寂と、少しのマナー違反も許さないというこの空気だ。
しかし食事を残すなどここでは言語道断なので、食欲がなくとも食べなくてはいけない。
まずは味噌汁を飲む。
「お前、音立てるなよ」
隣の森田が顔を顰めながら、注意をしてくる。
「ん、ごめん…」
どうやら少しすする音が出てしまったようだ
。音を出さないように気をつけなければ。
再び味噌汁を口にする。
……熱いっ!
音を立てずに静かに飲もうとすると、とても熱く、思わず咽せそうになってしまった。
味噌汁は後に回そう──
今度はご飯の茶碗を持ち、行儀良く食べる。
「茶碗の持ち方違う!こうだ!こう!」
また森田に注意されてしまった。
森田は自分の茶碗の持ち方を僕に見せる。
「うん…ごめん」
僕は謝罪しながら、森田の持ち方を真似て食べ始める。
「………」
ダメだ──少しも食欲が湧かない。
無心で食べるようにしているが、もう既にお腹いっぱいである。
相変わらず皆は一言も喋らず、音も立てずに食事をしている。
平気なのだろうか──
この雰囲気の中、普通に食事をしている皆を見て、僕は疑問が湧いてきた。
どうして普通にできる?
僕など無理やり料理を腹に詰め込んでいる。
やっと、あと少しで食べ終われそうなのだ。
あと少し──
僕は無心になりながら料理を頬張る。
もちろん音は立てない。
最後の天ぷらを食べ終わった時、凄まじい達成感と安堵が僕を包み込む。
食べ終えることができた──
僕が完食できたことに感激していると、
「お前はもっと食え。お前が一番食わなきゃいけねぇんだからな」
そう言って、織田先生が自分の天ぷらが乗った皿を僕に渡してきた。
「あ、ありがとうございます!」
僕は礼を言いつつも、内心では唇を噛んでいた。
ようやく食べ終えることができたのに、と──
なんとか食事が終わり、タクシーで体育館に戻ってきた。
あとは風呂に入って、寝るだけである。
「お前ふてぶてしいんだよ!それ直せ!」
国光部長の声だ。何かあったのだろうか?
僕は声の方に顔を向けてみる。
「はい、失礼しました」
見れば、東藤先輩が国光部長に叱責されていた。部長は以前から時々、こうして東藤先輩を一方的に怒ることがあった。
国光部長はどうやら東藤先輩のことが気に入らないらしい。
僕と中村先輩のようなものか──
咄嗟に未だに口を聞いてくれない中村先輩のことを思い出す。
──明日、また謝ってみよう
僕は中村先輩の顔を頭に浮かべて、ため息を吐きながら、風呂へと向かった──
──
「一昨日は本当に申し訳ありませんでした!」
僕は深く頭を下げ、中村先輩に謝罪をする。
今日の昼、学校に戻ってきてから、すぐに僕は中村先輩に謝罪をしに歩み寄った。
中村先輩はこちらを向かず、黙っている。
「おい中村、そろそろ許してやれよ。リックが可哀想だろ」
それを見ていた寺田先輩が間に入り、中村先輩に僕を許すように言ってくれた。
中村先輩はちらりと僕を見たが、やはり何も言葉を発することなく、去っていった。寺田先輩もそれに着いていく。
「はぁ…」
僕も肩を落としながら部室に向かった。
「おい、東藤、お前切り返しがメチャクチャでチャンバラにみたいになってんだよ!」
部室に戻ると、また国光部長が東藤先輩と口論になっていた。
「……」
東藤先輩は何か言いたげな、強い目で国光部長を見ている。
「なんだその目は…言ってることが分かんねぇのか!」
「……分かりません」
「は?」
「分かりませんって言ったんです!!」
東藤先輩は、大きな声で国光部長に反抗するように、分からない、と言った。
「お前先輩に向かって…」
部長は一瞬、何を言われたのか分からなかったのか、呆然としていたが、すぐに我に帰り東藤先輩との距離を詰め、そして──
ゴツッ
「…!?」
──部長は東藤先輩を殴り始めた
ゴッ ゴッ ベチッ
こ、これは止めないと!
僕は咄嗟に動こうとした。
だが──それを遮る手があった。
高井だった。
高井は僕の動きを遮るように、こちらに手をかざしている。
僕はそれで止まった。
高井がなぜ僕を止めたのかが分かったからだ。
ここで僕が止めるために先輩に逆らえば、次は僕の立場が悪くなるかもしれない。
高井はそれを懸念して僕を止めてくれたのだ。
「……」
僕の足はそれ以上動かない。
ゴスっ ベチッ ゴスっ
自らの意思で立ち止まった僕は、それを見ていることしかできなかった──
「おい、何やってんだ国光!やめろ!」
やがて、部室に入ってきた岩井先輩が国光部長を止めるまで、それは続いた──
ぐっと握りしめた拳が震える。
僕は何をやっているのだろう──
僕の憧れた人物は、あのような場面であってもすぐに動ける人物だった。
自分もそんな人間になりたいと思っていたはずなのに──
実際にはその後のことを考え、動けなかった。
僕は無力感にうちひしがれていた──
──
「お前ら正座しとけ!」
あの後、部長と東藤先輩の件はすぐに織田先生の耳に入り、部長だけではなく、見ていた僕たちも同罪ということで、正座をさせられていた。
東藤先輩の顔は、痛々しいほどに青く腫れ上がっていた。
僕は正座をしながら自らの手を見た。
──震えている
人が人を暴行するところを初めて見た。
とても怖かった。
それと同時に思ったことがある。
自分の言うことを聞かないからと言って、暴力を振るうことは正しいのか、と。
中村先輩のことを思い出す。僕も壁に叩きつけられたことがあるが、あれが正しいことだとは思えない。
そこまで考えて、鼓動が煩いくらいに脈を打っているのがわかる。
僕は胸を押さえながら、ここの在り方に疑問を抱くのだった。
あとがき
第14節 疑念を読んでいただき、ありがとうございます。
この話は、冬合宿の出来事がきっかけで、あの部活の環境や人物に疑問を抱き始めるところを描きました。
自分が絶対的に正しくて、相手が従わないと暴力を振るう。
これから先、僕はこういった環境に身を投じていくことになるのですが、この話で描いた、僕にとって初めての暴力行為を、黙って見るという選択をしたことで、今後の組織の中においての僕の行動が決定づけられてしまったのだと、今になって思います。
次はこの章の最後の話になります。読んでいただけると嬉しいです。

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