
第13節 揺らぎ
ヒューヒューと木枯らしが吹き、服を重ね着して、ようやく外を出歩ける季節。
学校へと向かう暖房の効いた電車内で、僕はある音楽を聴いていた。
それはある映画の主題歌だった。
その主題歌を歌っているのは「Kalafina」という三人組の女性ボーカルユニットだ。
彼女らの歌声は、それぞれがとても澄んでいて力強い。そのうえ三人の歌声が綺麗に重なる時もあれば、個々でばらばらに歌う時もある。まさに変幻自在の歌なのだ。
最近の僕は、このユニットの歌を聴きながら電車に乗り、その日の部活を乗り越えるための気持ちを整えることが欠かせなかった。
──あと一駅
心の中で「大丈夫だ。今日もやり切れる」と自身を鼓舞する。
電車が学校の最寄り駅に着く。
プシューという音と共にドアが開き、冷たい風が入ってくる。僕はイヤホンを外し、その風の中へと入っていった。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
冷たい空気の中を駆け足で校舎へと向かう。
途中、先輩を見つけた。
中村先輩と寺田先輩だ。
どくん、と心臓が大きく跳ねる。
すれ違いざま「おはようございます!」と元気よく挨拶をする。
二人はこちらをちらりと見て、再び談笑を始めた。
やがて学校が見えてくる。校門を通り抜け、学校の敷地内を剣道場に向かって走っていく。
「はぁっ、はぁっ」
先程あの二人の姿を見た瞬間、胃がキュッと締め付けられるような感覚に陥った。そして、その感覚はこれが初めてではない。ここ最近ずっと同じことが続いているのだ。
理由は分かっている。
毎日のように先輩から叱責され、身体が萎縮してしまっているのだ。
疲労骨折が治り、僕は以前と同じように全ての雑用を再開した。
だが、やはり同期である森田や高井のように要領よく動けず、焦っては失敗ばかりしてしまい、その度先輩から怒られてしまう。
いつしか僕は、先輩を見るだけで全身に緊張が走り、胃が締め付けられて嫌な汗が出るようになってしまった。
「はぁっ、はぁっ」
赤い外壁の古い建物に入り、螺旋階段を一気に駆け上がる。二階に着くとすぐそこに剣道場がある。
剣道場に着いた。
僕は息を整える間もなく部室に行き、荷物を置いて雑巾がけの準備をする。
──と、森田が先に着いていたみたいだ。
森田は洗面所の中で雑巾を絞っていた。
「おはよう、森田」
僕は森田に挨拶をする。
「おはよう、じゃねぇよ。昨日階段の電気当番だったのお前だろ」
振り向いた森田の声色は明らかに怒気を含んでいた。
またどくりと、鼓動が高鳴る。
「え…そ、そうだけど…」
声が尻すぼみになっていく。
「朝来た時に電気がついてたんだよ!」
「え、ご、ごめん…気が付かなかった」
森田の声が段々と大きくなっていく。
「なんでちゃんとやらないんだよ!!お前にはもう任せられねぇ!」
森田はそう怒鳴った後、道場の方に行って雑巾がけを始めた。
僕はその場に立ち尽くし、唇を噛む。
ちゃんと確認したと、思っていたのに──
どくん、どくん、と鼓動が脈打つ。
「ぐっ…」
とりあえず、次があるかは分からないが、次こそはしっかりと確認をしよう。
静かに決意をして、自分も雑巾がけに行った──
──
「ヤァァーー!」
面を打つ。
残心をとり、相手に礼をして次の相手の列に並ぶ。
こうして稽古をしていると、普段の萎縮や悩みを一時的に忘れることができる。
実はこの時が、一番落ち着けているのかもしれない。
列に並んでいると、不意に後ろから面紐を引っ張られた。
「……っ!?」
視界が揺れる。
目の焦点を合わせて、面紐を引っ張ってきた人物を見る。
中村先輩だ──
「お前、面紐解けてるぞ」
中村先輩は静かに、だが確かな苛立ちを感じさせる声色で指摘してくる。
「し、失礼しました!今すぐ直します!」
僕は慌てふためき、すぐに謝罪をしてその場を離れようとするが、中村先輩がそれを許さなかった。
「お前、これで何度目だ?”すぐに直します” “もうしません”って。俺はどれだけお前に裏切られたら気が済むんだ」
そう言って、中村先輩は僕の肩を力一杯押してきた。
「…っ…失礼しました!」
後ろに押し出されながらも謝罪する。
「まだ面つけるのも遅いしな。お前、明日には皆より早く面つけれるようになれ」
──っ!
明日には……それは無理がある。
僕は最近、家に面を持って帰って練習を続けている。それでも、まだ皆より遅れてしまうのが現状だ。
それにもかかわらず、いきなり明日からなど
不可能だ。
「あ、あの…明日からではなく、もっと時間を頂ければ…早くしていけます…」
僕は途切れ途切れになりながらも、明日は無理だということを伝える。
「はぁ〜っ」
中村先輩は肩をすくめ、盛大にため息をつく。
その様子が露骨過ぎて、少しムッとしてしまった。
「違うだろ。”明日までにやります” だろ。そんなことも分からないのか?」
中村先輩はもう一度ため息をつき、こちらを見て、少し眉間に皺を寄せる。
「し、失礼しました!明日にはやってみせます!」
僕は絶対に無理だと思いながらも、そう返事をすることしかできなかった。
中村先輩が稽古に戻っていき、自分の面を被り直している間、僕は内心穏やかでなかった。
明日には皆より早く面をつけなければならない。
それは大きなプレッシャーとなって襲ってきた。
──どうしよう?
僕の頭の中はその言葉で埋め尽くされていた。
今日も家に持って帰って練習するしかない──そして、明日は精一杯やる。
僕はキリキリと胃の痛みを感じながらも、そう結論を出し、面をつけ直して稽古に戻る。
「掛かり稽古!!」
列に戻ると、丁度掛かり稽古の号令が掛かったところだった。
「ヤァァーー!」
先程までの陰鬱な気分を振り払うように相手に掛かっていく。
僕の相手は、今日この剣道場に稽古に来ている織田先生の知り合いの刑務官だ。
身体が大きく威圧感があるので、一瞬怯んでしまったが、今は必死にこの相手に掛かっていく。
開けてもらった部位。面、小手、小手面と次々に打っていく。
「ヤァーー…っ!?」
体当たりをして鍔迫り合いになった時に、今度は上から押さえつけられた。
ぐっと、咄嗟に体幹と脚に力を入れ、それに耐える。
「ぐっ…ヤァァーー!!」
ばっ!と今度は耐えるだけでなく、その巨体を押し戻す。
「おー!」
その人物は驚いた、とばかりに声を上げた。
すかさず面を打つ。
「メェェェーン!」
パシーン!と綺麗に面が決まった──
──
稽古後、先輩の脱ぎ終わった道着を急いで集め、洗濯機の中に入れる。
次は先生の道着を回収しないと。
僕は回っている洗濯機のことを高井に頼み、織田先生のいる顧問室へと向かった。
コン、コン、コン、と三度ノックをして、「リックです。道着の回収に来ました」と言い、中へ入る。
すると部屋の中には、数人の刑務官がソファに座りながら、織田先生と談笑をしていた。
織田先生は僕の姿を確認すると、手招きをして僕を呼んだ。
「お前、ちょっとこっち来い」
「…? はい」
なぜ呼ばれたのか分からず、小首をかしげるが、言われた通りに先生の傍に行く。
「さっき話してたのはこいつのことでな…」
どうやら僕の話をしていたようだ。
織田先生はどこか嬉しそうにしながらも続ける。
「普通、初心者がこんな場所に来たらすぐに逃げ出すと思うだろ?でもこいつは付いてくるんだよ」
すげぇだろ──と先生は誇らしげに皆に言った。
周りからは、「そいつは確かにすごい」と感嘆の声が上がっている。
僕は驚いていた。
まさかあの織田先生が、本人を前にして賞賛するなんて──
そして胸の内から溢れてくるものがあった。
それは歓喜でも、誇らしさでもなく “後ろめたさ” だった。
織田先生は “逃げない僕” がすごいと賞賛している。だが実際には、心は既に折れかけていて、先輩達から逃げ出したくて堪らない。
稽古での勢いは、そういった現実から目を逸らすための虚勢に過ぎない。
以前の僕であれば、その先生の言葉を光栄に感じていただろう。
今は違う──
「織田先生に用件終わり、帰ります!失礼します!」
ひとしきり賞賛され終えると、僕は道着を回収して顧問室を退室した。
先生の道着を干しに二階に上がると、高井と山田が先輩達の道着を手分けして干しているところだった。
「ありがとう。こっちも先生の道着は回収したから、これを干したら今日はもう終わりだ」
言いながらほっとする。
今日もなんとか乗り切ることができた──と。
「おう、お疲れ。ありがとうな」
「…お疲れさま…」
高井と山田も少し疲れた様子で返事を返してくる。
相変わらず山田は何を考えているのか分からない。一つ変化したことがあるとすれば、それは敬語ではなくなったことだ。彼は最初、僕たち同期に対しても敬語で話していた。
何か心境の変化でもあったのだろうか?
僕は道着を干し終えると、二人と一緒に部室へと戻る。
部室に着くと、終礼までに少し時間があったので、山田に質問を投げかけてみた。
「山田はなんでこの部活に入ったの?」
それは、今疲弊し切っている自分自身への問いかけでもあったのかもしれない。
意外にも、山田はその質問にすぐに答えてくれた。
「お父さんに入れって言われて…」
「え…それじゃあ、山田はそもそもこの部活に入りたくなかったの?」
山田はこくりと頷いた。
「辞めたいって思ったことはないの?」
「お父さんが辞めさせてくれない…」
「そうなんだ…」
会話はそこで途切れた。
山田は自分の意思でここに来たわけではないのか。
それだと、とても辛いのではないのだろうか?
僕は自分の意志でここに来たにも関わらず、こんなにも揺れている。
──自分の弱さが嫌になる
今僕を支えているのは、始まりのあの “憧れ” だけだ。それだけでなんとか持ち堪えている。
あと二年。
長いがなんとか頑張らなければ──
「うっ…」
胃から何か込み上げてくるのを我慢しながら、改めて気合いを入れる──
──
「おい!昨日皆より早く面をつけろって言ったよな!」
「し、失礼しました!できる限りやりましたが…」
「言い訳するな!お前何回裏切るんだよ!」
部活終わり、中村先輩が僕に詰め寄りながら詰問をする。
今日の部活でも僕は面つけを早くできなかったのだ。
そんなの当たり前だ。昨日の今日で一番早くできるようになれたら苦労していない。
「失礼しました!」
僕は再度謝罪しながら頭を下げる。
チッと中村先輩は舌打ちをして去っていった。
ばくん、ばくん、と心臓の音がうるさい。
皆より早くならない限り、こんなことが続くのだろうか?
またキリキリと胃が痛む。
あの一級を取得して喜んでいたのが遠い昔のようだ。
「終礼〜!」
そんなことを考えていると、終礼の合図が掛かった。
僕は道場に出て、顧問室の前に正座する。
やがて扉が開き、先生が出てきた。
「来週の冬合宿は遠征するからお前らちゃんと準備しとけ」
先生はそう言った。
冬合宿──
夏合宿の苦い記憶が甦る。
あの合宿で疲労骨折をして、ずいぶん経った。
今思えば、怪我をしたのは正解だったのかもしれない。あの時だけは先輩達も少し優しかったように思う。
そこまで考えて頭を振る。
一体何を考えているのか。
結局厳しい現実が少し先延ばしになっただけだ。時がくれば今と同じ状態になるのは避けられなかった。
──嫌だな
冬合宿なんか来なければいいのに。
僕は無意識のうちにそう感じてしまっていた。
「ただいま」
家に帰ると母が心配そうに話しかけてきた。
「あんた大丈夫?最近ずっと暗いけど…」
「うん、大丈夫。でも来週からまた合宿があるからちょっと辛いかも」
思わず “辛い” と口にする。
母は少し考えてから、とても心配そうに僕に言った。
「……無理そうだったら辞めてもいいんだよ」
それはとても甘美な提案だった。
だが──
「大丈夫。もう少し頑張ってみるよ」
「そう?無理しないでね」
その提案に簡単に頷くわけにはいかない。
思い出すのは、入部する時の自分への誓いと覚悟だ。ここで折れて逃げ出しているようでは、僕は一生、理想の姿にはなれないだろう。
そして三年間やり通すというコーチとの約束や、先生から譲り受けた防具のこと。
その全てが、部活を辞めるという選択肢を、僕の中から失わせていた。
──辞めるわけにはいかないんだ
合宿のことを考えると、胃から何かが迫り上がってくる。
「う…ぐっ…」
たとえ、どんなに辛くとも──
あとがき
第13節 揺らぎを読んでいただき、ありがとうございます。
この話では、部活での人間関係の悪化で心が疲れ切り、それが身体に出始めている話を描きました。
思えば、組織での人間関係の難しさというものを、この時初めて実感したように思います。
この話の最後の方で、僕は自分の信念やコーチとの約束など、折れられない理由がいくつもあり、また “我慢” するという道を選びました。
僕はこの時の自分を、眩しくもあり、また愚かでもあったと今なら思います。この選択によって、この先どうなるのかも、読んでいただけると嬉しいです。

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