冷たさの奥にあるもの【前編】

日常と心
リック
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僕は自分のことを”冷たい”と思っている。

分かち合えない、優しくない、他人に寄り添えない──

特に何かをしたわけでもない。ただ、人のことで感情が揺れない。故に、”冷たい”という評価を自分に下していたのだ。

たとえば、妻が飼っていた猫が亡くなったとき。

60万円の治療費を払えば助かる可能性があった。

でも、僕はそれを選ばなかった。

今の経済状況、自分たちの生活、将来への不安──

それらを冷静に考えた末に、「お金は払えない」と判断した。

情ではなく、現実と向き合った末の決断だった。

彼女が泣き崩れていたそばで、僕はただ黙っていた。

その姿を見て「かわいそうだ」と思っても、“悲しさ”そのものが、自分の中に湧いてこなかった。

どこか、自分の内側に、透明な膜のようなものが張られていて──

それが、感情の波をせき止めていた。

そのとき僕は、彼女を慰めようとするよりも、心の奥でこんなことを考えていた。

「命はいつか尽きるものだから、これが寿命だったのだろう。仕方のないことだ。」と──

その冷静さが、自分でも怖かった。

でも、冷静だったからといって、心が冷えていたわけではない。

ただ、自分でも、どう向き合えばいいのか分からなかっただけだった。

彼女は当時の僕と違い、感情を大切にする人だ。

嬉しいときは笑い、悲しいときは涙を流し、時には怒りをあらわにする。

そしてそのすべてを、「一緒に感じてほしい」と願っている。

だが僕は、彼女が涙を流すとき、いつも戸惑ってしまう。

何を言えばいいのか、何をすればいいのか分からないのだ。

一緒に悲しむ“ふり”をするのも、うまくできない。

だから、沈黙することが多くなる。

結果的に、「寄り添ってくれない」「自分のことしか考えていない」と言われてしまう。

──図星だった。

「彼女の友達のほうが、自分の欲しかった言葉をくれた」

そう言われたとき、僕はひどく傷ついた。

けれど同時に、“やっぱり自分は、そっち側の人間にはなれない”という諦めが心に広がった。

この”諦め”は、今までに何度も感じてきた感情だった。

たとえば学生時代──

クラスメイトが皆で喜びや悲しみを分かち合っていたときも、僕はいつも疎外感を感じていた。

なぜなら、他のみんなが思うようには思えなかったからだ。

「自分は、ほかの人たちと違う」

「冷たいから、感情が薄いから」

そうやって自分に言い聞かせて、ずっと諦めてきた。

けれど──

それでも、「彼女の隣にいたい」という思いだけは、諦めきれなかったのだ。

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